毎日の礼拝

校長のお話

2017/01/23

「ブラックティー」(マタイによる福音書2章7~12節)2017.1.6

ちょうど40年前のことです。

1977年、私は京都の大学に入りました。

入り直したと言った方がよいでしょうか。

24歳でした。

24歳で1年生からやり直すのですからそこに他の人とは違う事情があるのは当然です。その前の年まで私はフランスにいました。

一応大学に通って勉強をしていましたが、自分の語学力のなさを思い知らされて、このままここにいてもダメだろうと、見切りをつけて日本に戻ってきたのです。

そうして始まった大学生活ですが、ふっとした出会いからフランス語研究会というクラブに所属することになりました。

そこでのある日の会話です。

「ブラックティー、そんなん聞いたことありません」。

と6歳下の同じ1年生の女子のAさんから、あきれたような返事をされたのです。

私は部室でコーヒーを飲んでいる時に入ってきたAさんにコーヒーにするか紅茶にするかを英語で尋ねたのです。

というのは、彼女は英語が相当できるという評判の人でした。

それがあって私はからかい半分で英語を使ったのです。

コーヒー オア ブラックティー? 

Aさんの反応は予想外のものでした。

「ブラックティーて、何ですか」。

わからないのは私の方です。

彼女は別に冗談を言っている風でもありません。

そこで私も真顔になって言いました。

「ブラックティーはブラックティーやろ、紅茶に決まってるやん」。

すると彼女はあきれたように言い返しました。

「紅茶はティーでしょ、ブラックティーが紅茶やなんて、聞いたことありません」。

この一言に私はカチンと来て、きつい言葉で言い返してしまったのです。

「アホか、辞書で調べてみい。君いったい何を勉強してきたんや」。

私の一言に彼女は人目もはばからず泣きだしました。

相手の思わぬ言葉と反応にカチンと来て、つまらない情けない態度をとり、子どもっぽい言葉を投げつけてしまった40年前の恥ずかしい自分を思い出させてくれたのは去年の12月にもらった1通のクリスマスカードです。

 

それは卒業生からのものです。

毎年のようにクリスマスカードを送って下さいます。

今回のものにはティーバッグが一つ同封されていました。

包装の表に記されていたのです。

「ダージリン、ブラックティ-」。

私はその文字を見ながら、うれしくなって心の中でついつい叫んでしまいました。

「ほら、A、紅茶はやっぱりブラックティーやろ。ちゃんと書いてあるやんか」。

ただ私が本当にうれしかったのはそのことではありません。

卒業生のクリスマスカードには、一般的なメッセージの他に、「校長先生、これを飲んで、しばし一服して下さい」の一言が書き添えてありました。

私は自分が気遣われていることに、うれしくなりました。

ティーバッグ1つです。

にもかかわらず、私には値打ちのあるもに思えたのです。

こういう気遣いというのは大事だなとあらためて教えられました。

そしてそれがまだまだできていない自分を反省しました。

2016年のクリスマス、私は年甲斐もなくたくさんのプレゼントをいただきましたが、同封されていたティーバッグはその中で最もうれしかったものの一つとなりました。

 

ところで私の気持ちと今を知っていて、卒業生はティーバッグを同封してくれたのでしょうか。

クリスマスカードを書いている時に、たまたま傍にあったティーバッグを何の気なしに入れてくれたのかも知れません。

真意はわかりません。

物事には、その人の思いをはるかに超ええる形で相手に伝わること、意味あることになることがあるのです。

それをキリスト教は御心、神様の計らい、愛と考えます。

物事にはその人の思いを超えた形になる神様の計らいがあるのです。

このように私がクリスマスにまつわる話をしますと、クリスマス、それはもう終わった行事と考える人がいるかも知れません。

実はクリスマス、クリスマス行事は12月24日のイブで盛り上がって、25日で終わりではありません。

クリスマスの4週間前のアドベントから始まるクリスマス行事の最終日は毎年1月6日と決まっています。

クリスマスの飾りは本来1月6に片付けるのです。

でも実際にそれをしたら、たぶん言われるでしょう。

いつまでクリスマスの飾りを出しているの、さっさとしまいましょう。

ちょうど今日がその日です。

 

1月6日、この日を公現日と呼んでいます。

先ほど読んでもらった聖書に登場する占星術の学者たちが、長い旅の末にようやくイエス・キリストに出会った日とされています。

彼らを導いてくれた星が止まった、その下は家畜小屋でした。

自分の人生をかけて会いにきた相手は、どうやら社会の片隅に生まれた貧しい家族の子どもであったのです。

彼らはそのことを知ってがっかりしたでしょうか。

そうではありませんでした。

(マタイによる福音書2章12節:ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。)

この言葉から彼らが自分たちの学びを通して知ったこと、わかったことが正しかったことを確信しました。

彼らが貧しいふつうの赤ん坊が社会に祝福をもたらたす力があると考えるようになったのは、彼らが一生懸命学ぶ人たちであったからです。

占星術の学者というのは、語学、医学、天文学、数学など、たくさんのことを学んでいる人のことです。

その学びの中から彼らはこの世界を救う力がどこにあるのか、どのような存在が社会の希望となり、そして祝福をもたらすことになるのかを知ることになったのです。

イエス・キリストに出会った占星術の学者たちの、それからどのような人生を過したかは、聖書には一切書かれていません。

でも想像することはできます。

それは、彼らはどのような時にも希望を失うことはなかったということ、そして学び続けたということです。

そしてそれは1月6日公現日を始業日として、再び学校生活が始まる敬和学園に属する私たちにも言えることです。

占星術の学者たちが教えてくれていること、それは学びの中に、日々の生活を支えてくれる希望があるということです。

学ぶ姿勢と気持ちが自分と社会を救ってくれるということです。

そのことを心にしっかりと刻みながら、それぞれの2017年に取り組んでいきましょう。