月刊敬和新聞

2016年5月号より「敬和学園の教育はブリコラージュ(?)です」

小西二巳夫(校長)

一つの提案
 3月中旬のことでした。教頭の佐藤先生から正面玄関脇にあるスペースに、昼休みや放課後のスクールバスや保護者の迎えの車を待つ間、学習したり本を読んだりできるようなテーブルとイスを設置してはいかがとの提案が出されました。そこにはすでに全校労作のお礼に営林署からいただいた丸太の上部を平らに削ってベンチにしたものが5つ置かれています。大きくて少し湾曲した丸太のベンチは重厚でそれなりの雰囲気があり談笑にはいいのですが、確かに学習や本を読むには不向きです。提案者のイメージにはSやTが頭文字のカフェのように窓際に長いテーブルに一人がけのイスが並べたものがあったようです。あれこれ話を進める中で、ふさわしいテーブルやイスがあるかどうか、注文して作るとなると相当費用がかかる…という話になりました。話の流れの中で私は思わずいってしまいました。「私が作ります。それなりのものをゴールデンウィーク明けまでには何とかします」。丸太のベンチを活かせば何かができると思ったのです。

ええかっこしい
 私くらいの年齢になりますと自分のいったことをよく忘れます。しかし「やります」と公言した以上、関西弁でいうところの「ええかっこしい」の私ですから、できませんでしたとは間違ってもいえません。4月下旬のある日、大きなホームセンターに行き、木材売り場を中心にあれこれ見て回りました。そうこうしているうちに頭の中を何かがかすめ始め、何となく形になっていきました。忘れないうちにと近くの喫茶店に入り、フリーハンドで図面を何枚も書きました。こうして丸太のベンチにマッチすると思われる長さ二m、幅一mの大テーブルの図面ができました。材料費は木材、金具や塗料などざっと計算しても2万円はかかりません。この瞬間まだ何もできていないのに、気持ちはしてやったりです。こうして5月4日の日に一日かけて、着色ニスで塗装した大テーブルと同じ色に仕上げたベンチが完成しました。今、正面玄関脇には以前からそこにあったかのようなテーブルとベンチがあって、それなりに利用されています。

ブリコラージュが大好き
 テーブル作りの顛末を書きますと、私がいかにも日曜大工好きで上手なように思われますが、そうではありません。そもそも面倒なことは苦手です。時間と手間をかけてコツコツ製作するなど性に合いません。今回も一番面倒な木材のカットはホームセンターでしてもらい、使った道具はインパクトドライバーだけ、塗料はすぐに乾いて重ね塗りが簡単な水性ニスにしました。それでは何が好きかといいますと、それはあれこれ考えて図面にして、材料や道具はあるものを使ってできるだけ安く、そして出来上がりは見栄えよくすることです。これを一言で表現すると「ブリコラージュ」となります。ブリコラージュには日曜大工という意味もありますが、「とりあえずあるもので始める。現状を認め、ないものはないと、それを受け入れる。あるものでないものを補う。こうあるべきという考え方はしない。価値観を変える」といった考え方をすることです。フランス語の縫う、ごまかすという動詞から派生した言葉です。ブリコラージュする人をブリコルールといいます。

敬和学園はブリコラージュで、やっています
 ブリコラージュは敬和学園の教育を考える上で実に大切な言葉であり考え方です。敬和学園は存在を大切にする学校でありたいと常に願ってきました。存在を受け入れることは、あるものをあるものとして認め、ないものねだりをしないということです。子どもたちは持っているものがそれぞれ違います。にもかかわらず持っていないものをあれこれ数え上げ、それを持たせることが教育であり教師の役割だと考えられがちです。さらに一定の枠に、それぞれの違いをあたかもないようにして、はめ込んでいくことが教育の多くの場面でなされがちです。それでは一人ひとりがいきいきできるはずがありません。聖書はブリコラージュを次のように表現しています。「わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好良くしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします・・・。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」。聖書のこのセンスが教育に求められているのです。心して敬和教育に励みたいと思います。