月刊敬和新聞

2016年1月号より「聖書『5000人の給食』から考えました ―全校礼拝の話より―」

小西二巳夫(校長)

 60年前の朝の給食
 60年近く前のことです。知り合いの学校では希望者には朝ご飯の給食も出るというのです。その小学校は大阪の商店街にあります。商店街の飲食店は夜中までやっています。親が夜遅くまで働いていて朝ごはんを作ることができないため、朝の給食が始まったようです。それもおいしそうなメニューでとてもうらやましくなりました。
 古い話を思い出したのは、最近あちこちの小学校で朝の給食を出すようになったからです。それぞれの家庭の事情は違いますが、たいていが経済的な苦しさがらみです。朝ごはんのお金がない、子どもの面倒を見る余裕がない…。朝ごはんを用意できないのはそれだけにとどまりません。子育てがないがしろにされがちになります。そのために子どもの生活全体が荒れたものになり、学校に来なくなることへつながります。

 給食に助けられた私の家庭
 私も給食の大切さを痛感させられたことがあります。私の家は小学校三年生の時に経済状況が悪くなります。両親が離婚をして母子家庭になりました。そのためその日の食費も事欠くようになったのです。母は思ったそうです。「今日この子に何を食べさせたらいいのだろうか。そうだ学校で給食がある。ああよかった」。学校の給食が我が家の貧しさを救ってくれたのです。給食がその一家を救い、その子の命や人権を守り、将来を保障し展望を拓くというのは大げさな表現ではありません。国連の食糧計画がフード・オブ・エデュケーションという取り組みをしています。マグカップ一杯の栄養価のある給食を毎年2000万人の子どもたちに食べてもらいます。それによって世界の飢餓を救い就学率を上げることができる、一日30円あれば、お腹をすかせている子ども一人に食料を届けることができて、その子の人生を変えることができるというのです。給食が食べられるとなると、貧しい家の親も子どもを学校に行かせます。子ども自身も喜んで学校に行きます。学校に行けば教育を受けることができます。給食の残りを家に持って帰ることで、幼い子どもも食べることができます。

 5000人の給食の話
 聖書にも給食の大切さを訴えた人がいます。イエス・キリストです。マタイによる福音書一四章の話は「5000人に食べ物を与える」という見出しがついていますが、この箇所は「5000人の給食の話」と表現されることがあります。食べる機会が保障されることは、お腹がすいたすかないにとどまらず、命と人生に関わる、そして社会に関わる大きな問題です。今日本の子ども6人に一人が貧困の中で生きているとの調査報告が出されました。今このチャペルには600人の生徒つまり子どもがいますが、このうちの100人が貧困状況にあって、今日の食事が十分に与えられないということです。給食の問題、貧困の問題はまさに私たちの直接的な課題であり、私たちが生きる世界と時代の問題であることに気づかされます。敬和学園は50年前から食べることを大切に考えてきました。それはきちんと食べることが人間的成長をするために欠かせないからです。さらに食べる時間をきちんと確保することがおいしく食べることには欠かせません。そこで昼の時間をきちんとってきたのです。そして、食べることに愛情を注ぐ意味で、専任の栄養士さんと調理員さんに作ってもらっています。食物アレルギーにもできるだけの対応をしてもらっています。

 給食が平和を作り出す
 みなさんの家庭にはそれぞれの事情と違いがあります。でも昼の給食を食べることでは一緒です。そこに何ら違いはありません。いうなれば、食べる時間を分かち合い、食べる席を分かち合い、そこで語られる言葉を分かち合っているのです。それが平和を作り出すことにつながるからです。敬和学園はイエス様が5000人の人たちと食べることを分かち合うように言われた、それを毎日再現しているのです。自分がそうした恵みの中に生かされていることに気づきましょう。そして同時にその祝福に与れない人たちが、私たちの周囲・社会に増えていっていることから目をそらさず、何かの形でかかわる勇気を持ちたいと思います。イエス様は5000人の給食の話を通して私たちに訴えているに違いありません。それにぜひ応える自分でありたいと思います。