自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2016/01/07
1月3日の日曜日、新潟教会の礼拝に出席しました。
その帰り道のことです。
東中通から左折して白山神社の前を桜木方面に向かって走りかけましたら、反対車線にずらっと車の列が続いていました。
それは白山神社にお参りするために、駐車場に入れる順番を待っている車の列でした。お正月に神社やお寺にお参りに行くことを初詣といいます。
お正月の三が日にどこかの神社やお寺に初詣出かけた人いるのではないでしょうか。東京の明治神宮や京都の伏見稲荷神社には3日間で300万人以上の人が初詣に出かけるようです。
新潟市の人口が約80万人ですから、市民一人が4回初詣に出かけたことになります。
実際ある人は白山神社だけでは物足りず、その後新潟教会の前を登って行ったところにある護国神社にもお参りして、お願いをしたそうです。
ところで初詣の目的は何でしょうか。
それは新しい1年いいことがありますようにと願い事をするためです。
お金が儲かりますように、商売がうまくいきますように。
家族が健康で過ごせますように、病気にならないように守ってください。
これらをまとめて言うと、その家に幸運をもたらす福の神に来てもらって、1年間守ってもらうことです。
四文字熟語にすると商売繁盛、無病息災、家内安全となります。
みんながみんな同じように「福の神」にきてもらいたいとのお願いをするわけです。そこでふっと思うのは明治神宮のように300万以上の人が同じようなお願いをしたら、
誰が何をお願いしたかわからなくなって、福の神も混乱してしまうのではないだろうかと言うことです。
同じようなことを考える人が主人公の話に「福の神」があります。
星新一という作家の話です。
主人公は元日の朝、大勢の人が出かける神社やお寺ではなく、誰もいきそうにない静かな墓地にでかけます。
そこにはしばらく前に亡くなった財界の大物のお墓がありました。
主人公は考えました。
「有名な神社に出かけてみても、そう効き目はない。たとえあったとしても、大勢押しかけては、1人当たりの福の割り当ては知れている。おれは独自の方法で幸運をつかもう」。
そこでポケットから小さなハンマーを取出して墓石のかけらをとろうとしました。
そのかけらを、幸運を招くお守りにしようと思ったのです。
ハンマーで墓石をたたこうとした瞬間「やめろ」と見えない声がしました。
びっくりした主人公が「あなたは誰ですか」と尋ねると、声の主は福の神だと名乗ります。
それを聞いた途端、主人公はまさに福の神に出会ったとばかりに、自分に乗り移ってほしいと熱心に頼みます。
熱心にお願いをする主人公に福の神は、一度乗り移ったら死ぬまで出ていくことができないから、もう一度じっくり考えたらどうだと諭します。
しかし何としてでも金儲けをしたいと考えている主人公は、一刻も早く乗り移ってほしいと願います。
その瞬間それまで外から聞こえていた福の神の声が頭の中に移りました。
次の日からお金がどんどん稼げるようになります。
貯金はみるみる増えていきます。
会社での地位も上がっていきます。
儲かったお金で投資をしたら、それでまた大きく儲けますます。
何もかもが願っているようになっていきました。
しかし別のこともわかってきました。
それは福の神の目的は主人公にお金をもうけさせることであって、仕事を休ませてくれないのです。
休日抜きで働き続けることになります。
健康と安全は福の神が守ってくれますから病気なったりけがをしたりすることはありません。
一休みしてジュースを飲もうとしたら、そんな勿体ないことしてはだめだと飲ませてもらえません。
音楽を聴こうとしても、息抜きにテレビを見ようとしても、それはムダなことだとさせてもらえません。
そのことに不満を言う主人公に福の神が言い放ちました。
「ワシは福の神だ。遊びの神ではない。ワシがいる限り金儲け以外のことは許さない」。この話から本当の福の神とはどのような存在かがわかります。
私たちが幸せに生きるためには、神様にどのようなお願いをするべきなのかが明らかになります。
お金を儲けさせてくれるだけの「福の神」は、本当の意味でその人を幸せにしてくれる、幸せに生きさせてくれる福の神にはならないということです。
お金儲けでいうなら、そのお金を使うことなしにいくら儲けても意味がないことです。
そして儲けたお金を使う目的が何か、何のために使うのか、誰のために使うのか、それによって幸せになれるかどうかが決まるのです。
さらに明らかになるのは、他の誰かのために使うことが、自分のためにだけ使うことよりより大きな喜びと幸せをもたらしてくれることです。
そういう生き方を自分にさせてくれる神様が本物の「福の神」なのです。
そういうお願いを初詣にしたら、世の中もっと楽しくなる、より多くの人が幸せに生きることができるようになるのです。
それを身近に人に語ったのが、そしてそういう生き方を自ら行ったのがイエス・キリストです。
イエス様は言われました。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。
イエス様はちょっとインパクトのある言葉で、一人ひとりが自らの生き方見つめることを求められたのです。
その人に求められる生き方はどのようなものか、どのような生き方をすることが、自分も周りの人も幸せにするのか、考えることを求められたのです。
そしてそれは今の時代を生きる私たちもまた求められているのです。
友のために命を捨てる、それを言葉変えて言うならば、共に生きるということです。
それが人を愛することなのだ、大切なのだと、イエス様は言われたのです。
共に生きるとは、違いを持った相手を認め、相手の弱さを受け入れることです。
そういう関係を作り出すことのために、自分の人格をかける、人生をかける、それこそが友のために命を捨てるということです。
そういうイエス様の声がいつも内側から響いてくるような人生こそが、福の神に守られるということです。
新しい年をイエス・キリストの声に従って歩んでいく、そういう一人ひとりでありたいと心から願います。