月刊敬和新聞

2015年9月号より「灰色の男たち 現代の時間どろぼう ―スマホ・ケータイから考えてみました―」

小西二巳夫(校長)

私が反省させられる時
 私は典型的なテレビっ子でした。今もあまり変わりません。夜、家に帰った時など見たい番組がなくても習慣的にテレビをつけます。衛星放送で外国映画やプロ野球を見ます。プロ野球はセ・パ両リーグの六試合を見ることができます。子どもの頃からのファンであるオリックス(阪急ブレーブス)を中心に試合経過を知るためにリモコンのスイッチを頻繁に変えます。そうした落ち着きのないテレビの見方をする私に妻は一言言いたくなるはずです。しかし黙っています。言えば口げんかになることがわかっているからでしょう。さらにテレビについて休日の夜などに自己嫌悪に陥ることがあります。「あ~あ、また見てしまった。ムダな時間を過ごしてしまった」。私がテレビのことで後ろめたさを感じるのは、子どもの頃に母によく叱られたからだと思います。本当によく叱られました。「いつまでテレビを見ているの。ええかげんにしなさい。なんであんたはそうなの」。

とことんテレビっ子
 たぶん小学校二年生か三年生の頃でした。母が一日家を空けることになりました。しめしめと思いました。そして母が戻ってこないのを確かめてからテレビのスイッチをつけたのです。しかしつきません。あれっと思ってあちこちさわっていると、何とテレビのコードが切られていたのです。母は私に愛想を尽かしたのか強硬手段に出たのです。ただ話はここで終わりません。その頃の私は器用だったのです。切られたコードの銅線の外側をペンチでむいて、それをねじってつなぎ絶縁テープを巻いてテレビを見たのです。そして母が帰ってくる前にコードを元に戻し、何食わぬ顔でその場をやり過ごしました。それだけの知恵があるならもっと役に立つことに使いなさいと、子どもの頃の自分を叱りたくなります。そして思います。「私の時間のかなりの部分をテレビが奪ったのかもしれない」。

「モモ」の時間どろぼう
 ミヒャエル・エンデの「モモ」風に言えば「テレビが私の時間を盗んでいった」となるでしょうか。「モモ」の登場人物である灰色の男たちは「時間貯蓄銀行」からやってきました。彼らによって街の人たちの生活が変えられていきます。人々は時間を節約しようとして、そのためにせかせか生活するようになります。人生そのものが楽しくなくなります。それは自分の時間を盗まれていたからです。灰色の男たちはまさに『時間どろぼう』でした。この時間どろぼうに立ち向かうのがモモです。ストーリーはハラハラドキドキの連続です。ある日、時間をつかさどる老人マイスター・ホラが言いました。「時間とは日々の生活であり、その人自身である」。

スマホ・ケータイは現代の灰色の男たち
 時間どろぼうはファンタジーの世界だけではなく現実にいるのではないでしょうか。今、多くの大人と子どもは時間を盗まれていると言えます。本人はそのことに気づいていません。スマホ・ケータイが生活に欠かせないという人が多くいます。確かに手のひらサイズにもかかわらず便利です。たいていのことはこれで間に合います。仕事でなくてはならない道具になっている人や人間関係を作る必需品になっている人がいます。スマホ・ケータイはたとえ離れた場所にいる人とでも瞬時につなげてくれます。それを多くの人が当然と考える時代になりました。このように瞬時につながることは確かに時間の節約になります。しかしそのことを「モモ」から見ると、自分の大事な時間を失っていることでもあるのです。「ああでもないこうでもないと悩む時間」「どうしているだろうか、元気にやっているだろうかと相手を思いやる時間」などの一人で考える時間がいつの間にかなくなっています。考える時間イコール待つ時間です。スマホ・ケータイが「待つ」時間をその人から奪っているのです。スマホ・ケータイは灰色の男たち、現代の時間泥棒ではないでしょうか。待つことの楽しみを知らないのはあまりにももったいないのです。マイスター・ホラがいうように、待つことが自分を自分らしくして成長させてくれるのです。子どもたちに待つことの大切さを伝えていく使命が学校にあります。それを自覚した教育を続ける敬和学園でありたいと思っています。