月刊敬和新聞

2014年11月号より「本当に聴かなければならないのは、そして変わらなければならないのはおとなです。」

小西二巳夫(校長)

教育センターからのお礼状
 先日、新潟市の教育センターからお手紙をいただきました。それはセンターのプログラム「高校生と語る会」に1年生のAさんが呼ばれて中学生と交流したことへのお礼状でした。Aさんは自分の中学校時代を振り返り、次のように語ったそうです。「…私は小さい頃から変わっているところがあって、自分でもみんなと同じになりたいなと思ったし、やってみたけれどやっぱりダメでした。特に中学の頃は何をやってももうダメだとむきになっていました。学校に行きづらくなった時は、特にどうしたらよいのか本当にわからなくて、ふとんをかぶって泣いてばかりいました。だけど、敬和学園に行って初めて、変わらなくても良いんだと納得できました。敬和で出会った人たちは私に対してだけでなく、みんな受け入れてくれます。ちょっと違うかな…と思うような意見があったとしても必ずいったんは受けとめてくれます。そこが私はすごいなと思います。今は自分がこうなるとは思わなかったくらいに学校が大好きです」。変わらなければならないとの思い込みから解き放たれた時、人は前向きに変わり始めるのです。Aさんが中学生に語っていることは、本当はおとながしっかり聴かなければならないことなのです。

R・ニーバーの祈り
 何を変えなければならないのか、何を変えなくてもいいのかを教えてくれる言葉があります。R・ニーバーという人のお祈りです。日本語に訳すと次のようになります。「神よ 変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを認識する知恵を与えたまえ」。 Jポップ風にすると「仕方のないことに対しては落ち着きを。何とかなることに対しては勇気を。その二つを見分けることに対しては知恵を」となります。ニーバーは本当の勇気を与えてくれるよう祈り求めています。そして変えるべきことと、変えられないことを区別する知恵を与えて下さいと祈ります。知恵は日常の体験や現実の生活の中から得ることができるものです。他人から教えられるものではなく、自分自身の経験から体得できるものです。Aさんは自分の何を変えるべきなのか、何を変えなくていいのかを、半年の敬和生活を通して判断する知恵を自分の内側に育て始めているのです。

3年生Bさんの自分史から
 Aさんの2年先の敬和生活を歩んでいる3年生のBさんが、私が受け持つクラスの自分史の発表で次のように書いています。「…高校に入学しても、やはり新しい環境に慣れるのに時間が必要でした。気持ちがつらくて前向きになれず学校に行けない日もありました。そんな時に校長先生の言ってくれた言葉が頭をよぎることがあります。「がんばらなくていいよ」。この言葉を聞いた時、すぐには理解できませんでした。何でがんばらなくていいんだ?と疑問でした。普通はがんばれって言うんじゃないの?その謎は敬和生活でのさまざまな体験を通して少しずつではありますが、とけていきました。多分、焦らずゆっくりでいいから自分のペースで歩んで進みなさいということなのかと思います。つい人と比べてしまい、なんで自分はダメなんだ、劣っていて恥ずかしいと自己嫌悪に陥ってしまいます。それでは前に進まず自分自身をよけい苦しめる結果になります。…これからも「がんばらなくていいよ」という言葉の意味を深く考えていこうと思います。…私しか歩めない道を確実に一歩ずつ進んでいこうと思います」。「私しか歩めない道を進んでいく」との言葉の中に、本人が思う以上に生きる自信と力を持った存在になりつつあることがわかります。

変わるべき存在は誰か
 敬和学園の使命の一つに、自らの存在を内側へ内側へと追い込み固くさせられている子どもたちを、本来のあるべき姿に戻して、自分の人生を歩けるようになってもらうことがあります。ニーバーの祈りにある「見分ける知恵が与えられるように」と誰よりも先に祈らなければならないのは学校自身なのです。教師が自ら変わることを恐れず、むしろ積極的に受け入れることによって、子どもたち一人ひとりを受けとめる柔軟な姿勢を持った時、教育力は上がるのです。神がそれを二人の生徒の言葉を通してあらためて教えてくれているのです。神のこの言葉をしっかり聴く学校でありたいと願います。