毎日の礼拝

校長のお話

2021/01/15

「謙虚に学ぶ姿勢を整える」(マタイによる福音書 2:9-12)

 今日1月6日はエピファニー(公現日)です。

エピファニーとは、隠されていたものが公に顕わにされる「出現する」という意味で、宗派によっては顕現日とも公現とも言われています。

ギリシア語のエピファネイア(上から現れる)という言葉が基になっています。

神の御子イエスキリストが、肉体をとって人となられた神秘が明らかにされた日として、カトリック教会では祝日とされています。

 1月6日と定められた由来は諸説あります。

聖書には外国である東方から占星術の学者たちが黄金、乳香、没薬を携えて、ベツレヘムに導かれ、初めて救い主が示され、彼らが幼子イエスを礼拝したと伝えられています(マタイによる福音書2章1~12節)。

ですからこの日を外国人・異教徒のためのクリスマスとした歴史もあります。

 神の子が肉体をとって人となり、人間と同じ立場に立ったことは、罪の宿る肉体を、この神の子もとられたのだと考えました。

神の子でありながら、自らも人間と同じように弱さや躓きを受け入れて、人間(罪人)と共に生きる神(インマヌエル)となられたという解釈です。

 

 この賢者たちは知性も教養もある人たちでした。

その人たちが占星術という当時の科学の最先端学問から自分たちの学んだことを現実に役立てるため、新しく生まれた王を礼拝するために星に導かれて旅を続けていました。

この時代、旅とはレジャーではありませんでした。

今のように環境が整備されているわけではありません。

ホテルがあるわけでもありません。

強盗に襲われる危険もありました。

そんな危険を承知の上で新しく生まれた「王」すなわち救い主を探しに来たのです。

この時代の旅は十分すぎるほどの準備と勇気と思慮と細心の注意が必要でした。

 

 しかし、エルサレムまでやっては来たものの探している人物がどこにいるのかはわかりません。

そこでユダヤ王ヘロデの元を訪ねたのです。

物事をしっかり学んでもわからないことはあり続けます。

学べば学ぶほどわからないことは増えていくともいえるでしょう。

この賢者たちはエルサレムで行き詰まりました。

そして次に打った手は驚くほどシンプルでした。

それは「新しく王としてお生まれになった方はどこにおられますか?」とヘロデに尋ねたのです。

 

 知っていそうな人に「尋ねる」「聞く」。

本当に知りたいのだという熱意を持つということ、相手に敬意をはらいつつ謙虚な気持ちで尋ねるというこの方法は、その道のプロすなわち祭司や律法学者たちを動かし、「ユダヤのベツレヘムで生まれる」という情報を手に入れます。

そしてその情報をもとに更なる旅へと進むのです。

とうとう彼らは幼子イエスを探し当てます。

 

 マタイによる福音書の著者は彼らが幼子イエスに贈り物をしたというエピソードを挿入しています。

この世界で初めてのクリスマスプレゼントは黄金・乳香・没薬でした。

乳香と没薬は漢方薬として現在も使われていますが、古代社会においては死者の亡骸を埋葬するために欠かせないものでした。

有名なところではエジプトのミイラを作るときに使われました。

死者の弔い(葬儀)にはお金がかかります。黄金はそのための準備です。

誕生のお祝いに葬儀3点セットを贈るという物語が今日の場面です。

イエスの誕生は十字架の死へとまっすぐ向かっているというテーマです。

神の子でありながら、自らも人間と同じように弱さや躓きを受け入れて、人間(罪人)と共に生きる神(インマヌエル)となられた方が「現れた」。

その方は私たちの弱さや狡さを共に担い、その結果十字架の死を受け入れてくださったということを伝える冒頭のエピソードが今日の聖書箇所の場面です。

 

 賢者たちはその方に会うために謙虚に教えを乞い、誠実に歩みを進めました。

ここにも「何のために敬和で学ぶのか」というヒントが与えられていると私は考えます。

皆さんには素直に学ぶ姿勢を身に着けてほしいと思います。

学びたいという熱意があれば、必要な情報を提供してくれる人やあなたを支えてくれる人助けてくれる人が必ず現れます。

 

今日から学年末期です。

学年の仕上げに向かって歩みます。

皆さんの学びも謙虚で誠実であることを願います。

自分に向き合い、課題から逃げることなく、歩みを進めてまいりましょう。