のぞみ寮通信

のぞみ通信

2020/12/21

今週ののぞみ寮 ~特別号~ 「のぞみ寮全体礼拝 説教」

のぞみ寮全体礼拝 敬和学園理事長 榎本栄次先生の説教から

2020年12月6日(日)

 

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聖書箇所

ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。

(ルカによる福音書16章10節)

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 のぞみ寮の皆さんこんばんは。今日、このようにのぞみ寮の皆さんにお話をする機会を与えてくださって大変うれしいです。いっぱい話したい事がありますが、今日は、時間が限られているので、出来るだけ短くお話したいと思います。

 

 クリスマスは12月25日ですが、先月の11月29日からアドベント、待降節という時に入っています。このクリスマスまでの期間がとても大事な期間で、キリスト教では一年の始まりと決められています。

 それでは、12月25日がなぜクリスマスなのか?聖書にそのような根拠はありません。後世の人がこの12月25日をクリスマス。イエスの誕生日にしようと決めたから、クリスマスとなっているのです。

 なぜ12月25日なのでしょうか?1月1日とか、4月とか、秋の収穫の時とか、そういう時が良いのに中途半端な12月25日はなんだろうと思ったりします。この日は1年間で一番暗い日。1年間で夜が一番長くて寒い日。寂しい日、暗い日、冬至と言います。1年間で一番辛い時、暗いときをキリストの誕生日にしようと決めたのです。

 さて皆さんはいまどのような時を送っているでしょうか?楽しい時でしょうか?あるいは、辛くて、悲しくて、迷ってどうしようかと思う。そういう時でしょうか?今、コロナのために世界中の人たちが苦しんでいる時であります。暗いニュースが続いています。12月25日は、まさにその象徴の日と言えるでしょう。

 

 読んでいただいた聖書の箇所に、イエス様は、このように言っています。「ごく小さな事に忠実な者は、大きなものにも忠実である。」「ごく小さな事」とはなんだろうか?私達の関心があるのは、大きな事であり、立派なことであり、成功であり、そして健康であり、勝利です。その反対のごく小さなこと、恥ずかしい、寂しい、貧しい、病気、敗北、そういうことを象徴して、小さいと言えるかもしれません。

 ここで、「小さい」とは、実は自分のことなのです。ごく小さな事に忠実である。自分の事を考えてみて、今楽しい時かもしれない。楽しい時は、誰でも自分のことを公にしたいけれど、苦しい時、寂しい時、辛い時は隠しておきたい。しかし、ごく小さなものに忠実とは、困った時も逃げ出さないでそこにいるということです。調子の良いときばっかりではなくて、ものすごく恥ずかしいこと、ものすごく辛い時、悲しいときに、そこから逃げ出さないで何とかしようと努力する。そのような事を“ごく小さいことに忠実”と言うのです。   

 それは、決して人ごとではなくて、自分の中にある弱さ、恥ずかしさに忠実であるということです。何とかしようと努力する。そういうことを、ごく小さいという。それは決して、人ごとではなくて、自分の中にある、弱さや恥ずかしさに忠実であると言うことです。

 私は、敬和学園で13年間校長をしていました。ある放課後、玄関のロビーを出ると、陸上部のキャプテンをしていたI君が一人でいました。彼は、ふてくされていました。

 「どうしたのI君?」

 「今日は帰る。誰も来ないから……。」

 「ちょっと待って、君が帰ったら、後から来た部員はまた帰るよ!」

 「どうせダメだから帰る。」

 そこで、彼に「1と0の間には100の違いがある」と話をしました。

 「今君が一人辞めたらまた0になる。0を100回しても0は0。後から来た人も誰もいないから一人だったら、いても仕方ないと帰るだろう。それは全然だめ。一人でも一生懸命頑張ってごらん。1×100は100になる。0×100は0だけど、1×100は100、頑張って居たら必ず100になる。」

 「そうか」と練習を始めたI君。そしたら、しばらくして「せんぱーい」と後輩がやって来たのです。

 「そらみろ、I君、キミが帰ってたら、彼も帰ってたぞ!」

 「そうだねー」と二人で練習を始めた。次の日のチャペルで礼拝がありました。私はこの話をしました。1と0の間にはいくつの差がありますか?皆、きょとんとしていました。一番前に座っていたいI君に「I君どうだ?」で問うと、I君は、大きな声で「100」と応えました。その話をしたことを覚えて居ます。

 

 「1」 恥ずかしい、少ない、貧しい、弱い、自信ない、いやだ。それが「1」。その「1」に忠実かどうかを問われるのです。君たちは、今いくら持っている?と聞かれたらどう応えますか?「100です」と堂々といえるが、「10です」とは中々言えない。ましてや「1」だとは言えないだろう。「1」はごく小さいのですから、恥ずかしい。

 でも忘れてはいけない。いくら持っているという、量とか、質とかで、その人をそういうことだけで評価しようとするのは大人やこの社会です。しかしそういうのは、畏れる必要はない。先生であろうが、社会であろうがだれであろうが、量と質でしか計ろうとしない人は、信じるな。恐れる必要はありません。

 むしろ「今ある1に忠実である人」その1を担って歩いている、歩いていく人を畏れてください。その人は、必ず祝福し、100を得る人です。君たちの人生が100倍楽しくなる。本当の意味があるためには、その「1」に忠実であるかどうかです。

 

 ある年の暮れ、のぞみ寮は荒れていました。どうしようもない。汚いし、生活指導が次々起こるし、どうしようと。本当に、私も頭を悩ましたし、寮の先生方も本当に困っていました。ご苦労をかけていました。私は寮の生徒達を呼んで話し合いました。

 今は、牧師をしているO君、M君、あるいは、会社経営をしているS君たちがいました。彼はラグビー部でした。そして私は、「お前達どうするんだ?」「どうしてなんだ」「寮をなんとかせい」と言った。皆、黙っていました。そのうちO君が泣き出したんです。なぜ泣き出したかというと「このままでは寮がダメになる。せっかくここに来たのに。ダメになる」と泣き出したのです。泣き出したのは、人を責めているのではない。寮生が悪いから、他の生徒が悪いから、教師が悪いからではなく、「俺がダメなんだ」と言っているのです。それで泣いている。私はその涙を見て、これはすごいヤツだな。「これはうれしな」と。これが“敬和学園の教育力”だと思ったんです。のぞみ寮はほんとうに「希望(のぞみ)」がある。大丈夫だと思った。どんなに荒れていても、この生徒と一緒にちょっとでも良くしようと頑張ろうと、私は思ったのです。

 

 皆さん、今成績にしろ、何にしろ、本当に悩む時があると思います。しかしその「小さな1」に忠実であってほしい。100や80や90を良いとし、他の人を無視するような生き方ではなく、自分自身も含めてその「1」をしっかり引き連れて行ってほしい。敬和の卒業生は、その「1」を大事にする人が多いのです。いろんな所で活躍してくれています。キリスト教会で言うならば、日本の中で50年で敬和の卒業生が100人以上牧師になっている人がいます。こんな学校はありません。あるキリスト教教育同盟の会で「敬和学園は特別だな、すごい学校だ」という評価を聞きました。

 それは、みなさんと同じように大変な状況の中でも、“頑張って、皆、寄り添って、批判しあって、励まし合ってしている”その寮教育、寮生活の中で培われた教育力だと思うのです。私は、生徒の中にある皆さん方の教育力を信じます。そしてそれに期待をかけます。「1」でいいです。ただ「1」を「0」にしないで、「1」を毎日続けていく。それに忠実である。そうすると必ず100倍の実を結ぶ事は請け負います。

 クリスマスのことを「インマヌエル」とも言います。それは「神、我々らと共にいる」と言う意味です。「共にいる」と言うことをプレゼンスとも言います。ここに神の子が来てくださった。それがクリスマス・プレゼントの喜びです。 

 クリスマスは、12月25日です。一番寒い、一番恥ずかしい日をキリストの誕生としたのです。決してルンルン気分で、その街のジングルベルが鳴る。クリスマスプレゼントがもらえる。そういうものではない。暗い所にキリストが来たのです。それを12月25日とした由縁なのです。「ありがとう!」それがクリスマスのメッセージなのです。痛いことをむしろ大事にするのだ。のぞみ寮での生活は不自由でしょう。いろんな意味で。通学生と比べて、お母さん、お父さんから離れて色々寂しい事があるでしょう。しかし、そこに忠実であってほしい。私はそのことをあなた方に期待するし、信じます。その教育力は絶対無くならないと信じますし、きっと大きな実をやがて皆さん方が結んでくれると期待しています。