校長 中塚 詠子
讃美歌21 533番 どんなときでも
『讃美歌21』533番「どんなときでも」(『こどもさんびか』の120番)は、『こどもさんびか2』がつくられた時の応募作品です。そして『讃美歌21』に掲載されている580曲の中で唯一子どもが作者の作品です。賛美歌の左上には小さな文字で「詞:髙橋順子 1959―1967」とあります。一九六七年に順子さんは7歳という短い生涯を終えて神様のもとに召されました。8歳のお誕生日を迎えることはかないませんでした。順子さんは幼稚園卒園を前にして骨肉腫という小児がんの診断を受け、左大腿部から切断しなければなりませんでした。順子さんはお母様に、足は「のびてくるから」と言っていたそうです。その後、がんは肺に転移しました。
くじけない生き方
順子さんが召された30年後の1998年に遺稿集(*)が出版されました。その中で苦しい闘病生活の中でも「最後まで治ると信じておりました」とお母様は記していらっしゃいます。順子さんが5歳のころに習っていたピアノの先生の冷泉アキさんは教会学校の先生でもあり、その先生を通して、順子さんの詩は詞となり『こどもさんびか2』の公募に応募され、讃美歌「どんなときでも」が誕生したのです。
この賛美歌の元になった詩は順子さんの2回目の手術の前日に書かれたものです。原詩は「一 どんなときでも/どんなときでも/くじけてはならない 二 どんなときでも/どんなときでも/しあわせがくるまでくじけてはならない」とあります。遺稿集を読んで私は静かな衝撃を受けました。順子さんが幼くして召されたこと、小児がんであったことは知っていました。大腿部から左足を切断していたこと、当時受けていた治療が日本人の子どもで初めて成功したこと、そしてこの詩が切断後の2回目の手術の前日に書かれたことは遺稿集を読んで初めて知りました。
不安や苦しみの中からでも
この詞は教会学校で聖書のお話をよく聞く素直な優等生の女の子の感性だと私は思い込んでいましたが、それだけではないことに驚かされました。大きな手術の後の再手術です。深い恐れと不安にさいなまれていたと思うのです。痛みや抗がん剤の苦しさの中にいたはずなのです。がんは肺に転移していましたから、呼吸もままならなかったはずなのです。痛さや苦しみや不安の真っただ中にいた7歳の子が、くじけてあたりまえの状況の中で、「くじけてはならない」と記したことに私は衝撃を受けたのです。
さらに、この詩の中で順子さんの心は〝しあわせ〟に向かっています。不安のただなかで、恐れのどん底でなお〝しあわせ〟に向かう心の強さが記されていました。人はどんな時でも、苦難の中ででも希望を語ることができるのだという7歳の順子さんの生き方に、この賛美歌を歌うたびに私は揺さぶられるのです。
しあわせに向かって歩む
髙橋順子さんの遺稿集のタイトルは『学校に行きたい』です。最後に掲載されている「学校に行きたい」という詩は「おかあさん 手をつかんでいてね/早く なおって 学校へいくんだから」と記されています。順子さんの願いは学校へ行くことでした。「がいしゅつ」という作品の中でもご両親と遊園地でゴーカートを楽しみながら、心の中では「わたしは/こんなとこより 早く 学校へ行きたい」と書いています。順子さんは健やかなあたりまえの学校生活を切望していました。敬和学園の皆さんは順子さんが切望した学校生活を送っています。もしかするとその学校生活が「つまらない日常」とか「代り映えしない毎日」と思っている人もいるかもしれません。しかしそのあたりまえの学校生活が大事なのです。その日常はかけがえのないものだと気づくことができれば、その日々を感謝して過ごすことができます。
ただ単に知識を詰め込み、暗記することが敬和学園の教育ではありません。学校生活の中で出会いを通し経験を重ねることが重要だと考えています。生徒の皆さんには、毎日の礼拝でたまたま出会った賛美歌の詞に心を動かされ、順子さんの人生を追体験してみるような〝学び〟を積み上げて欲しいのです。苦しいことや辛いこと、思うようにいかない切なさがあったとしても、そこからしあわせを望み、歩みを進める強さを育んで欲しいのです。そんな学びが、知識を知恵に変え、心と体を成長させると私は思っています。
賛美歌「どんなときにも」に励まされて、私は敬和学園の教育の意義、そして大切なことをもう一度改めて確かめたのでした。
*『学校へ行きたい〈遺稿〉』 髙橋順子 1998 民報印刷