月刊敬和新聞

2020年6月号より「苦しさの中でも成長する」

校長 中塚 詠子

長い休校
 新型コロナウイルス感染症予防のために3月から休校措置が取られ、異例の事態となりました。
 今年は残念ながら皆さんに校内に咲いていた桜を見ていただくことはできませんでした。寂しい思いで満開の桜を見ながら、あの美しい花の色をとっておけたなら、そして登校してきた皆さんに見せてあげられたらいいのになあと思いました。それはできないことでしたが、そういえば草木染で見事な桜色の布を見たことを思い出し、布を桜色に染めることを調べてみました。

耐えたからこその美しい色
 調べてみて驚いたことが二点ありました。一つは桜色というのに桜で染めた〝桜色〟ではないということです。布を桜色に染めるには、一般的には紅花で赤く染めた布の上に白い布を重ねる〝桜重ね〟という手法をとるか、茜という植物で薄く染める方法なのだそうです。桜だけを使った染め方ももちろんありますが、桜の木の染料の中にはオレンジやベージュの色素が多く含まれていて、あのピンク色だけを取り出すことは技術的にとても難しいことなのだそうです。
 驚きの二つめはあんなに美しい色をしているのに桜の花びらからは染料が抽出できないということです。桜を使って桜色を出すのは、小枝や幹の皮だというのです。また、昨年きれいなピンク色に染まった同じ桜の木だからと思って今年も染めると、昨年とはまったく違う色に染まることがよくあるようです。
 ある染色家が編み出した染め方は、花咲く前の蕾の付いた小枝を集め、約40日炊いたり冷ましたりした後さらに約90日かけて熟成させ、桜の花びらのピンク色を染めていくというやり方です。また別の染色家は蕾をつける前の幹の樹皮を丁寧に煮出すことでその色を取り出すと記されていました。「じっと冬の寒さを耐えた樹皮を使うのでなければその色が出ない」と言ったその染色家の言葉に未知のウイルスに怯えて自粛生活をしている私は励まされた気がしたのです。

耐えることを通して自分を見つめる
 今、私たちは先の見通せない不安な日々を過ごしています。我慢しておウチにいることや、日常だと思っていた当り前の生活を送れないことや、授業や部活動・寮生活が思うようにいかないいらだたしい思いの中で毎日を過ごしています。桜の話はそんな毎日にも深い意味があるのだと気づかされるものでした。何もできない中で、自分と向き合う時間をとること、家族のためにできることを丁寧にやってみること、今を耐えながら精一杯生きることは、かけがえのない深い学びにつながると私は思ったのです。
 このコロナ禍は私にとって「生きる」とか「命」とか「存在」という人間の根源にかかわることをしっかりと考える機会となりました。私だけでなく世界中の多くの人たちがそうだと思います。この答えのない哲学的なそして宗教的な問いにしっかり向かい合うという機会に私たちは恵まれたのです。わたしが桜に励まされたとはこういうことです。

その人がその人らしさを表現するために
 美しい桜色に染まる枝や樹皮とは、「若さがあって素直」であることがポイントだそうです。樹齢150年の桜でも「若さがあって素直」なものもあれば、4、5年の若木でも「若さ」も「素直さ」もない桜があるようです。まるで人間のようです。私たちは心の若さと素直さを持っているでしょうか。
 一人ひとりの持つ心の「若さ」と「素直さ」を用いて前述の問いにしっかり向かい合ってみてください。今は制限があり、不自由なこともたくさんあります。その制限や不自由さが日常生活の前提になりました。
 聖書には「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。」(コリントの信徒への手紙二 1章6節)と記されています。悩み苦しみだけに留まらないと語られています。また、七節では苦しみと共に「慰めをも共に与えられている」と重ねて強調されています。ですから私たちは揺るがない希望を抱けるのです。苦しい中でも人は育っていくのです。苦しい中でこそ慰めに満ちて人は育つのです。
 苦しさの中で神様と向き合い、自分と向き合うとき人は成長するのです。