毎日の礼拝

校長のお話

2010/11/15

「京都大学霊長類研究所」(マタイによる福音書6章27~29節)

愛知県に犬山市という町があります。
犬の山と書いて犬山です。
戦国時代に作られたお城、犬山城があるところで日本中によく知られています。


それとは別に犬山が世界的に知られているのが、モンキーパークと京都大学霊長類研究所です。
ある意味冗談のような話です。
犬と猿を使った格言に「犬猿の仲」というのがあります。
たいへん仲が悪いということを表す言葉ですが、それをわかってかわからないでか、犬山にわざわざ猿山、サルの研究所を作ったということですから、なかなかシャレが効いていると言えます。
犬山にある京都大学霊長類研究所は、サルやチンパンジーといった動物の研究では世界の最先端をいっています。

 
一括りにサルといっても大きく分けると二つに分かれます。
たとえばニホンザルやタイワンザルは霊長目サル科です。
チンパンジーやオランウータンは霊長目ヒト科です。
ヒト科ということですから、いうなれば人間と同じに分類されます。
遺伝子DNAのゲノムでいいますと、チンパンジーと人間は98.8%同じだそうです。
違うように見えてほとんど同じです。
そういわれて、いい気持ちがしない人がいるかも知れません。
チンパンジーの知能は人間に比べて劣っていると多くの人が思っているのですが、実はそれが思い込みです。
それが京都大学霊長類研究所の長年の研究からわかってきています。
たとえば、敬和の1年生がしばらく前から取り組んでいることに、聖書科で「主の祈り」を覚えるというのがあります。
なかなか覚えられなくて苦労している人いると思います。
何回も挑戦して合格した人もいると思います。
すぐに覚えた人でも、主の祈りは聖書や讃美歌の中に書いてあるのを読んで覚える、何回か書いて覚える、そういうやり方で覚えたはずです。
書いてあるのをパッと見て覚えることができたという人、まずいないと思います。
ところが、チンパンジーは、そこに書いてあるのをパッと見て、パッと覚えることができる能力に優れています。
そういう意味で人間よりはるかに凄い能力をもっています。
覚えるのが苦手な人にとっては、チンパンジーの能力がうらやましくなります。
わたしたが見たチンパンジーの能力を測るビデオでは、訓練を受けたチンパンジーが一瞬見せられたボードに書いてある数字を、すぐに隠されて、次に数字がたく並んであるボードの数字を使って、一瞬だけ見せられた数字の並び順に正確に押していくというのがありました。
チンパンジーはこの実験の最中、まったく迷うことなく、数字を選んでいきます。
人間だったら、5だっか6だったか、何だったか、あれこれ考え込んでしまうはずです。
パッと見てパッとわかる、パッと見てぱっとわかる、うらやましい気がします。
ただそこに、人間とチンパンジーの大きな違いがあります。

 
人間はついついいろんなことで悩んだり迷ったりします。
そのために落ち込んだりするわけです。
あれこれ、くよくよ考えてたまらなくなったりするわけです。
そういう自分がイヤでたまらないという人、いるのではないでしょうか。
京大霊長類研究所は、こうしたチンパンジーの能力を研究することの目的は、チンパンジーのことをよく知るためですが、それは同時に、人間とは何か、どのような存在なのか、そして人間が何を大切にどのように生きていけばよいのかを考えることにもなるのです。
チンパンジーが数字をパッと見て、パッと覚えられるのは、今を生きているからです。というよりは、今という時しか生きることができない、今だけしか生きられないからです。
チンパンジーは、今晩何を食べようかなあ、焼肉すするか、それとも久しぶりに鍋でもするかとは考えないようです。
そういう楽しみももてないわけです。
明日の朝は晴れるかなあ、雨かなあ、雨だったらいやだな、そうだ、カサ学校に忘れてきた、あれどこに置いたかなあ、という考えはもてません。
第3定期テストの成績、もう一つだったなあ、あの失敗はもうしたくない、2週間後の第4定期テストはがんばったろやないか、ここで点数を稼いで、評定平均値を上げないと、3年になって進路を決める時に指定校推薦をしてもらえないしなあ、と先のこと、つまり自分の進路について考えることはできないわけです。
それは霊長類ヒト科でも人間だけができるということです。
そのように考えると、すぐに悩む人、あれこれ迷いやすい人、それはある意味一番人間らしい人間だといえますし、楽しみでもあるということです。

 
今日の聖書はあれこれ悩むこと、迷うことをだめだとは言っていません。
それを前提として、わたしたちに、どのように一日一日を過ごすが、どのように生きるか語りかけているのです。
もしチンパンジーのように「今、ここ、という世界」に生きていれば、ある意味失望したり、絶望したりしないですみます。
その点で人間はちょっとしたことで失望したり、絶望的になったりすることがあるわけです。
人間は明日のことをあれこれ想像するから失望したり、絶望的になったりするのですが、でも、逆にそういう想像できる能力があるから、希望をもったり、喜ぶこともできるのです。
ちょっとした自分の変化や、周りの人のちょっとした言葉掛けに嬉しくなったりするのも、過去と比べることができるからなのです。
しかも人間に能力として与えられているのは、過去の悩み、将来の不安を自分ひとりだけで考えるのではなく、それを周りの人に相談できる、聞いてもらうことができるということです。
一人で抱え込まなくてもいいということです。
今日の聖書で、イエス様は、私たちが思い悩む存在であることを前提に、それを一人で抱え込むなと、言われているのです。
そのすべてを受け入れ、一緒に背負う、わたしがいるではないかと言われているのです。
悩むことを大切にすることは、自分を大切にすることであり、そして周り人を大切にすることであり、わたしたちの生きている世界を大切にすることであるのです。
それでは新しい1週間、敬和学園の学校生活を共にしていきましょう。