校長 中塚 詠子
「なつぞら」の舞台 北海道十勝地方
4月から放映されている朝のドラマ小説「なつぞら」の舞台である北海道十勝地方は私の生まれ育った場所です。ドラマの風景は子どものころや中高生だったころのあれこれを思い出させてくれます。
小学生の頃まで住んでいた家の周りには木がたくさん生えていました。四季折々に変化を見せその木ごとにたくさんの遊びを楽しみました。食べられる植物もたくさんありました。ちょっとすっぱいグースベリーや小粒で甘いコクワの実が大好きでした。ガレージの屋根に覆い被さるように桑の木が枝を張っていました。夏に白い実がなり始めだんだんと赤くなり秋には黒く熟します。その実を食べるのはとても楽しみでした。
何事も先輩はいるもので近所のお姉さんが「この色になったら食べられる」とか「この色は食べられるけどまだ酸っぱい」とか教えてくれました。大人たちはお腹を壊すので食べてはいけないと言っていましたが私は隠れて食べていました。でも舌が紫に染まるのでその嘘はすぐに母にばれました。
食べられる実と食べられない実
近所のお姉さんの言うことには絶対の信頼を置いていました。お姉さんが食べられないと言えば食べられないし、食べられるけれどおいしくないと言われればそのとおりだったからです。けれども私は決して聞き分けのいい良い子ではありませんでしたからこっそり色々試していました。そしてお姉さんの言うとおり「食べられるけどおいしくない」「苦くて食べられない」ことを納得したのです。
お姉さんはもちろんのこと、母からも絶対に食べてはいけないと言われていたのが山桜のさくらんぼです。
言うことを聞かない子どもだった私
十勝地方の桜はソメイヨシノではなく山桜です。山桜も花を散らせると見事に緑の葉が茂り、小さな実を結びます。濃い深い赤色の実です。四歳の私はその色に魅せられて食べてみようと思ったのでした。木に登ることができなかった私は地面に落ちているきれいそうなさくらんぼを食べました。口に入れたその実は苦くとても食べられるようなものではありませんでした。すぐに吐き出し、不快感がいつまでも口の中に残りました。きれいに洗えば食べられるのではないかと思い、拾って洗って食べてみましたがやはり苦くて食べられませんでした。木から直接熟した実を食べることができればおいしいかもしれないと思いましたがまだ私は木登りができませんでした。そこであきらめればよかったのです。
翌年、5歳の私は再挑戦したのです。一年をかけ登りやすそうな桜の木を物色し、その木に登る練習をしました。そしてとうとう完熟した実を木から直接採り食べることに成功したのです。
やはり苦くておいしいものではありませんでしたが、今思えば完熟していたことと一年かけた計画が計画通りにできたことの興奮で、「おいしくないけど食べられる!!」とばくばくと種ごと食べてしまったのでした。
ほんの数十分後に激しい腹痛に襲われました。何度もお手洗いに出入りします。母が様子を心配しましたが、やってはいけないと言われていたことを二年越しでやってしまった後ろめたさがあり、必死にごまかしました。ところが嘔吐し、その中に噛み砕かれたさくらんぼがあったことですべてが露見したのでした。
自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです
5歳の私は親や大人の言うことをきかず、どうしても自分で確かめてみなくては納得ができませんでした。その結果、腹痛と嘔吐で一晩苦しむことになりました。まさに自業自得というものです。
聖書では「自分の行いを吟味してみること」(ガラテヤの信徒への手紙 6章4節)が勧められています。自分の行いを冷静に見つめてみるということです。そうするとだめな自分や足りない自分や課題が明らかになってきます。自分の課題を担う行いは必ずふさわしい実り(成長)が約束されています。
頭ではわかっていても自分の行いを吟味することは難しいことです。懸命なゆえに視野が狭くなるともありますし、興奮して冷静さを欠くこともしばしばです。失敗してやっとその行動が自分の好奇心や欲求を満たすだけの行動であることに気づくこともしばしばです。
痛さや苦さ、辛さを伴うことがあったとしても自分で行動し、自分で感じ、自分で考えて自らの「行い」を継続してください。その難しいことに挑戦する機会が多く用意されているのが敬和学園での学校生活です。