月刊敬和新聞

2019年3月号より「先立つ方を知っているから」

校長 中塚 詠子

やりきれなかった悔い
 49回生を送り出しました。私は自分の高校の卒業式はやっとここから離れられるという気持ちと高校生活を誇れないという思いがありました。教師や学校を信頼できなくもなっていましたし、なにより自分の居場所がないと思っていました。卒業した49回生にもやりたかったのにできなかったこと、やり残したこと、失敗したこと、やろうとしなかったことの悔い、向き合いきれなかった後悔、自分自身に残念に思うことなどがあったことでしょう。

雲の柱 火の柱
 出エジプト記13章は神様に指名されたリーダーのモーセがイスラエルの民を先導してエジプトを逃れ神が示した約束の地へと移動する途中の場面が記されています。その移動は楽なものではありませんでしたが、聖書には「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった」と記されています。イスラエルの民にとって神の取り扱われた民族の歴史を記述することは、誤りがあってはならない大変神聖なことでした。実際にあった史実や複数の歴史記録を確認しなければ、記録に残さなかったといわれているほど厳密だったようです。
 では、民を導いた雲の柱、火の柱とはどういうものだったのでしょうか。文章だけ読むと何か現実離れした不思議なものが現れたような気がします。現実の可能性としては次のような現象が予想されます。
 彗星説。いくつかの写真を見るとたしかに火の柱と表現しても良いように思います。竜巻説。竜巻だけなら黒い雲の柱に、落雷と一緒だと火の柱に見えます。積乱雲による竜巻は白い雲の柱に見えます。砂嵐説。後の箇所では強い風が吹いたとも書かれています。砂漠地帯で強風が吹くと砂嵐がおこります。竜巻やつむじ風も起きたかもしれません。夜の砂嵐が黒い雲の壁のように見えたかもしれません。火山の噴火説。噴火はもちろん火の柱に見えたでしょう。たった一日の出来事ではなかったようですから火山の噴火による竜巻だと主張する人もいます。

神の約束が果たされる場
 もし、そうだとすると砂嵐も竜巻も噴火も大変危険な現象であることにはっとさせられます。これらは大変危険で命を失うかもしれない災害です。「神が共にいてくださる」「神が導いてくださる」とは、清潔で安全で確実なことではないのです。火の粉をかぶるかもしれない、目に砂が入るかもしれない、あまりの風の強さに足が止まり、体がすくむような出来事の中に神の約束が実行されるのだということです。
 49回生は良く働く学年だという印象がありました。よく動く、よく働くということは移動範囲も長く広いということです。必然的に何かにぶつかるとか接触する範囲も増えます。それは人とのかかわりにも言えることです。他者のために働くのであればなおのことです。思いもかけない困難やうまくいかない閉塞感、竜巻や落雷、噴火のように思える現実として神の導きがあるのです。そこが神の約束が果たされる場なのです。

自分を見つめ成長する
 敬和学園高等学校での学校生活は決して平坦なものではありません。思い通りにはいかないことも多いはずです。けれど敬和生は一つひとつの出来事や事柄、そして出会いによって変えられ成長していきます。いろいろあって順調なのです。辛かった出来事や面倒に思える事柄を通して敬和生は神様に守られ、導かれてゆくのです。
 学校生活に限らず生きていれば、辛いこと、泣きたいこと、苦しいことがきっとあります。竜巻の姿で、落雷の姿で、噴火の姿で、神さまは私たちの人生に先立ってくださいます。私たちは先立ってくださる方をすでに知っています。ですから安心して大胆に自分探しの旅を続けてゆきましょう。