自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2010/08/26
朝8時NHKテレビ、今は「ゲゲゲの女房」です。
見ていますか。
オープニングタイトルに河原を自転車で走る場面が出てきます。
風の中を主人公の二人が気持ちよさそうに走ります。
原作の漫画家水木しげるさんは仕事がはかどらなくなると、自転車でぶらっと走りに出たようです。
そうすることによって、いいアイデアが浮かんだということですが、同じような行動をとった人に作家の万城目学さんがいます。
万城目さんが作家になるきっかけは風です。
大学3年生の時に、自転車で河原を走っていたら、とても気持ちのいい風が前から吹いてきて、ああ、気持ちいいと思いながら、その次に「そうだ、この気持ちを文字に書き残さなくてはならない」と突然思ったというのです。
そして、それをしばらくして実際の行動に移すのです。
万城目さんが作家になろうと思った2年後に大学を卒業します。
そのまま東京の有名企業に入社します。
そして、研修もかねて静岡の工場で2年間働きます。
そして、東京の本社に戻ることになった時、会社を辞めて作家活動に入るのです。
万城目さんは風の気持ちよさを文章にしなければと思って作家になるようなアホな人間は他にはいないだろうと考えていましたが、ある時、自分が作家になる本当のきっかけはもっと別のことにあったということに気づきます。
それは高校2年生の時の現代文の授業時間のことです。
その日先生は宿題を出します。
それは「発想飛び」といわれる話を書いてくるというものでした。
発想飛びというのは、いわゆる「風が吹いたら桶屋が儲かる」ということわざがありますが、自分で面白い発想をして、それを書いて提出するのが宿題でした。
「風が吹いたらなぜ桶屋が儲かるのは、それは風が吹くと、砂埃が出て失明する人が増える。失明した人が弾く三味線の需要が増える。そうすると三味線に張るネコの皮が必要になり、猫が減る、ネズミが増えて桶をかじる、桶屋が儲かるとなるわけです。宿題は「風が吹けば花屋が儲かる」というフレーズについて、発想飛びを完成しなさいというものでした。
先生は「クラスで一番できのいい作品には褒美を上げます」と宣言します。
するとクラスは俄然張り切りだします。
翌日現代文の授業の始まる前に、教室で作品の見せ合いが行われます。
いかに自分がびっくりするような面白いものを作ってきたか、お互いにアピールしあいます。
万城目さんは自分の作品に自信がありましたが、隣の生徒の作品を読んだ瞬間、「わっと」という声を上げてしまいます。
それは生物の授業で扱っていたことを書いたものであり、こともあろうに、自分もほとんど同じ物を書いていたのです。
万城目さんはその瞬間、こいつはいけない、とわき目も振らず、消しゴムで鉛筆の字を消し始めたのです。
そしてわずか10分の休み時間の中で新しい話を考えて書いたのです。
字は時間がないこともあって、実にヘタクソでした。
提出した後で、何であんな変なものを書いて提出したのかと悔やみます。
けれどもはや手遅れでした。
1週間後、万城目さんの作品はクラスの最優秀賞に選ばれました。
先生は万城目さんの作品を面白いと評価してくれたのです。
万城目さんはそれまで自分は評価される文章とはまったく縁のない人間だと思っていました。
実際読書感想文や作文で、賞状を貰って全校朝会でされるような人たちの文章を読んで、こんなものは逆立ちしてもかけないと思っていました。
まじめで行儀のいい、よい子の文章が「よい文章」だと考えていました。
ところが、自分のどう見ても行儀の悪い文章が認められたとき「ああ、こういうのでもいいんだ」と今日の聖書の18節「目からうろこ」が落ちる思いをするのです。
自分が面白いと思ったことを、素直に書いたらいいのだと、急に周りの壁が取り払われたような気持ちになります。
ただし、最優秀作品の賞品は漢字ドリルでした。
しかもそれはすぐに出版社の営業の人がサンプルとしておいて行ったものだということがすぐにわかりました。
万城目さんは今思うわけです。もしもあのとき隣の席の子が自分に書いたものを見せてくれていなかったら、自分は宿題の書き直しをすることはなかっただろう。
そして、もしそうした体験をしていなかったら、数年後、自転車で風に吹かれた時、自分は果たして小説を書こうと思い立っただろうか。
答えはノーです。
もし、あの時、文章は素直に書きたいように書いたらいいんだと教えてもらわなかったら、今も自分は文章というものを誤解したままだった。
15年前に現代文の先生が私の土壌に蒔いた種は、数年後、自転車に乗って風に吹かれた時、突如発芽することになるわけです。
それからまた年月が経って、小説を書き始めた。
これが、万城目学さんが小説家になるプロセスです。
そこで一つの大切なことが判ってきます。
それは万城目さんの今があるのは、現代文の宿題を休み時間の10分間に書き直した汚い字のものであっても、とにもかくにも提出したからです。
宿題というと、させられる勉強の代表のように思われて、あまり好かれません。
宿題が大好きという人あまりいないと思います。
仕方がないからする、誰のためにするものかと考えると、なかなか自分のためですとは答えにくいのではないでしょうか。
宿題は誰のためにするものですかと聴かれたら、たいていの人はその質問の意図をわかって、ハイ自分のため、わたしのためです、と答えます。
心底そう思っているかといえば、そうではないことは明らかです。
けれど、万城目さんの現代文の宿題から判るのは、宿題は誰のためでもない、やっぱりわたしのため、自分のためだということです。
まさか、それがその後の人生を決める宿題になるとは、その時はわかりません。
けれどそうした一つの営みが自分の人生に大きく関わることになるのです。
キリスト教では、そこに神様のみ心が働いたと考えます。
偶然と思えることの中に、神様の意志が働くことがあるのです。
そのように考えると、課題として出された一つの宿題をきちんとすることがいかに意味あることかがわかってきます。
それは宿題だけのことにとどまりません。
服装をきちんとしましょう。
髪の毛の色、身だしなみに気をつけましょう、ということにきちんと取り組むのは、誰のためでもない、そこに自分の将来がかかるような何かがあるかもしれないのです。
そう考えると、生活指導の注意は関係ないと他人事として聞き流せなくなります。
そういう発想を持って生きる、生活するのが、いわば敬和流です。
そういう生き方をする一人ひとりに神様の御心が働かないはずはないのです。
必ずその人に一番ふさわしい物が用意されていくのです。
それが敬和の発想飛びです。敬和の発想飛びを忘れないならば、今日から始まる2010年後期の敬和生活は間違いなく楽しいもになり、充実するはずです。