毎日の礼拝

校長のお話

2018/10/16

「息を合わせる」(創世記 2章7節)

 俳優で演出家でもある野田秀樹さんのドキュメンタリーを見たことがあります。自分の出身小学校へ行って授業をするというものでした。

 演劇の稽古を始めるときに基本練習をするのですが、そこでおもしろいなと思ったエチュードがありました。16拍歩くというエチュードです。ただし16拍ごとに人数が増えていきます。初めに一人が16拍歩きます。次の16拍は二人が歩きます。次の16拍は三人です。八人まで歩いて今度は一人ずつ少なくなっていきます。一人が連続して歩くことはできません。必ず全員がどこかで歩かなければいけません。しかもしゃべってはいけません。次に誰が行くのか、自分が行くのか、誰が歩いたのか、よく見ていなければなりませんし、考えていなければなりません。三人が歩くときに五人が飛び出すこともありますし、反対に人数が少ない時もあります。そうなったらば初めからやり直しです。

 番組内では生徒が何度も何度もやり直しをしていました。誰もしゃべりません。野田さんの16拍をカウントする声と励ましや指示の声だけが響きます。「必ずできるから」「周りをよく見て」と何度も野田さんが声をかけます。そしてついに完璧に無言で歩きとおすことができたのでした。

 

 これは面白いと夏休みに行われたキャンプでやってみたことがあります。面白くて難しかったのですが、やってみてなるほどと思うことがありました。言葉を使えませんから周りをよく見ないといけません。誰が次に行きそうか気配を観察するのです。何度もやり直しをしているうちにチームメンバーのことが分かってきます。全体の空気感とか、次は歩くぞといった決意や、同じ人が続けて歩くことはできませんから頼むぞ!とほかの人に託す目ヂカラや任せろといううなずきが出てくるのです。

 

 時間がかかって何度もやり直すこともありますが、できたときの達成感は大きいです。このエチュードは息を合わせなければできません。息を合わせて一歩踏み出すのです。自分が歩き出したからやり直しになるかもしれません。自分が歩かなかったからやり直しになるかもしれません。全員がどこかで歩かなければなりませんから16拍の繰り返しは緊張感で満ちています。そこでは歩くことも歩かないことも両方が必要なことです。しぐさや視線を真剣にさぐり誰がどこで歩いたかを記憶します。呼吸を合わせることができればこのエチュードは完成です。ここで一つのことを成し遂げてお芝居の練習が始まります。キャンプの初めにこのエチュードをすることでその年はスムースにプログラムが進みました。

 

 さて、今日の聖書です。私たち人間は土の人形で神様が息を入れられたので生きたものとなったというのです。この息という言葉は魂とも訳せる言葉です。私たち人間は神様の性質を分けていただいたと古代の人々は考えたのです。息を合わせるということは神様が吹き入れてくださった一人一人違う性質を認め合うということでもあります。

生きた者というのはその人に与えられた使命を生きるということでもあります。

生き生きと生きるようになったというのです。

 息を合わせるということは神様からいただ一人一人違った性質を出し合って生きるということでもあります。積極的に前に出ていくことだけが息を合わせることではありません。じっと観察することもぐっとこらえてそこに踏みとどまることも時には求められるのです。

 

 神様が吹き入れられた息は良いものです。頂いた良いものをその人なりにその人らしくその人にしかできないやり方でしっかり使ってほしいと思います。英語の祝福の言葉はGod bless youです。私たちは神様の息をいただいた祝福された存在です。ため息をつくことがあってもそれは次に新しい息を吸い込むためのものです。

 神様の息を吹き入れられた私たちはすでに神様に祝福されているのです。祝福されて歩み出す一週間を感謝できる一人一人でありたいと思います。