月刊敬和新聞

2018年8月号より「私の中の光を輝かせる」

校長 中塚 詠子
はっきり選べなかった進路
 みなさんはなぜ敬和学園高等学校に進学しましたか?なぜ高校で学ぼうと思いましたか?そしていま何を学んでいますか?
 高校生の私はこの問いに答えることができなかったと思います。また今の自分が当時を思い返してみてもはっきりと何かを言えるわけではないような気がします。特別な理由もなく就職ではないよなあ、とりあえず進学かなあと私は高校生になりました。高校三年生の時に教師になりたい、教師になろうと決めたのですが、そのためには大学で教職免許を取らなければなあとぼおっと考えていたように思います。
 高校にも多くの科やコースがありますし、全日制だけではなく単位制や通信制があり高校卒業の資格が認められる試験制度もあって、自分の学びをどのように考えればいいのか今の自分の知識があれば分かります。でも当時は自分のことなのに真剣に調べたり考えたりしませんでした。ですから教師になり進路指導に携わるようになってからは生徒本人より情報を集めるのに結構必死になりました。

進路を選ぶということ
 先日、研修会で講演を聴く機会がありました。講師はプロ野球選手として活躍され、選手を引退してからはその球団のスカウトマンをなさった方でした。講演の後いくつか質問がなされました。高卒の選手でプロとして通用するのはどういう人ですか?という質問に「初めからずっとプロをめざしていた選手」とその講師はお答えになりました。プロでしかやらない。ダメなら社会人野球、ダメなら大学進学と考えている選手はプロになれたとしても通用しないというのです。やっぱり厳しいなあと思って聞いていましたが、これは進路選択にも当てはまるのではないかと思いました。
 何年も前のことです。指定校推薦を取れなかったらどうしますか?という質問に対して「だめなら別の学校の指定校にします」と答えた生徒にがっかりしたことを思い出したのです。その生徒は学部も学科もまったく関連のない別の学校名を挙げたのです。そこには自分の成績や条件にはめ込むことが優先された進路決定がありました。それはそれで一つのあり方だとは思います。でも私はひどくがっかりしたのです。その理由は何だったのかが分からずしばらくもやもやとしたものが残りました。自分の進路ではないのです。他人(その生徒)の人生です。なのにひどくがっかりしたのです。たぶんその生徒の本気さや気持ちがどこに向けられているのかを私が感じられなかったことが残念だったのだと思います。
 四年制大学に進学したとしましょう。進学先で四年を過ごすのです。進学先はどんなところなのか、何を学ぶのか、自分がどんなことをするのかをまったく考えずになんとなく成績で無難に指定校枠にはまればいいというその選択が私は残念でならなかったのです。講演の質問の答えはそれを思い出させました。

揺らぎの中から見いだすもの
 一般的にはこの学校に行く、この学部で学ぶ、この資格を取ってこの職業に就くといった強い意志が進路を決定します。けれどもすべての人がそんなに強い気持ちで進路を考えることができる訳ではありません。
 高校で学ぶ意味、進学先で学ぶ意味は何でしょうか?一人ひとり答えは違うでしょう。決められず迷うこともあるでしょう。だからこそ自分の気持ちに向き合ってほしいと思います。敬和は進学実績の数を競ったり自慢する学校ではありません。一人ひとりの幸せの形もそのための選択も進路も違って当然だと考えています。ですから授業は選択科目が多く行事を大切にしているのです。いろいろ試してみることができる学校です。
 ルカによる福音書11章33-36節ではあなたの中に光があると書かれています。その光であなたは輝くのです。あなたが輝くために、あなたが幸せになるために、あなたがあなたに成長するために、自分の心が何を求めているのか、何を学びたいのかを自分自身に問いかけてほしいと思います。迷いながら揺らぎながら問いかけ続けること、そこからぼんやりとしていても自分の光を見いだすことが重要です。その過程が自分を大切にすることにもつながってゆくのです。