毎日の礼拝

校長のお話

2010/07/09

「少年譜」(ヨハネによる福音書9章1~3節)

伊集院静という人がいます。
お笑いの伊集院光ではありません。


伊集院静は作家でわたしより2つ年上のおじさんです。平和を真剣に考える作家の一人です。
文学的才能にあふれた人で、ベストセラーを何冊も書き、映画になった作品もいくつもあります。
それだけでもうらやましがられるのに、もっとうらやましがられることがあります。この人はかつて夏目雅子というきれいな女優さんと結婚をしました。
その夏目雅子が白血病で亡くなった後、今度は篠ひろ子というやはり女優と結婚をしています。

 
伊集院静の最近出した作品に「少年譜」というのがあります。
少年譜には7つの短編小説が収められています。
7つとも少年がおとなになっていくストーリーです。
いくつか紹介します。
「笛の音」はこんな話です。
火事のあった日の明け方、燃料屋さんの家の前に赤ん坊が置き捨てられます。
赤ん坊は山で暮らす炭焼き小屋の年老いた夫婦にもらわれて行きます。
赤ん坊は貧しいながら楽しい毎日を過ごします。お寺の和尚さんに勉強を教えてもらいます。やがて学者の養子になり、自分も有名な植物学者になって故郷を訪ねる。

 
「親方と神様」では、少年は台風で父親と妹を失います。母親は朝一番で駅弁を売り、昼間は駅前の食堂で働き、夜は料理屋の仲居さんの仕事をします。少年は刃物を作る鍛冶職人の仕事に興味をもって、しばしば見に行きます。その少年に年老いた鍛冶職人は言いました。「砂鉄は一つ一つは小さいが、集まれば大きな力になる」。少年は後に製鉄会社の社長、会長になります。

 
もうひとつ「古備前」という作品の少年は父の姿を知りません。母親は行商の仕事をします。耳の遠い祖母との二人の暮らし。希望を失って死のうと海辺に出た少年に母親がいいました。「世の中にはわしらよりもっと辛い人がおる」。

 

 

7つの作品はどれも少年が大人になっていく道程を描いています。
大人になるといっても、そこにはひとそれぞれにずいぶん違いがあるなあということがわかります。
金持ちの家に生まれるか貧しい家にうまれるか。
周りの人からうらやましがられる才能を持っているか、自分には何もないと思うのか。幸運を独り占めにしているとさえ思える人、逆に不幸の塊のように見える人。
自分と自分の周りを見回しても、同じ高校生、同じ敬和生でありながら、それぞれにさまざまな違いを持っています。
少年譜の7人の主人公もまったく違う人生を歩んでいるわけですが、同時に共通したものがあるということがわかります。
それは一人の人間として大人になるまでに通らなければならない道程があるということです。

 
伊集院静は少年譜を通して、通るべき道則があると教えてくれます。
一つは人の痛みを知るということを少年の時に自分の体と心で持って体験することです。
もう一つは悔やむということ、悔しい思いをすることの大切です。
したかったけれど、でき得えなかったという思い、悔しさを持つことです。
3つ目は、自分だけが耐えているというものを持つことです。
そこから自分という存在が一つしかないと思えるようになる、これら3つを少年の時に、子どもから大人になる前までに、思春期までに体験することによって、本当のおとなになるというわけです。

 
先週金曜日、オープンスクールがありました。
労作をしてくれた40人余りの人たちのおかげもあって、遠くから近くから来られた中学生と家族のみなさんは敬和学園がどういう高校であるかをわかっていただけたと思います。
オープンスクールの最後に個別相談の時間がありました。
たわたしのところに中3の本人と家族が話に来られました。
これまでに何度か敬和に来られているので、顔見知りです。
その中学生が今の自分の状況をあらためて話してくれました。
一言で言うなら、その人はクラスの中でイジメの対象にされている、ハジカれているのです。
中2の時に突然イジメが始まり、それが今まで続いてきたわけです。
その人が敬和学園を進学先に考えるようになったのは、イジメに会うことによって心の痛みをもつようになったことがきっかけです。
イジメによって学校に通うことが難しくなり、クラスの取り組みにも参加できにくくなったこと考えれば考えるほど悔しいとのことです。
それを取り戻したいとの気持ちを強く持っています。
そして、それでも毎日の生活に耐えていると、話してくれました。

 
今日の聖書で、弟子たちはイエス様に尋ねます。
「この人の目の不自由なのは、本人のせいですか、それとも両親が何か悪いことをしたからですか」。
イエス様は答えられました「神の業がこの人に現れるためである」。
イエス様の答えは弟子たちや周りの人たちにとって考えもしなかったものでした。
そこに一人の人を見るイエス様、神様の柔らかなまなざしがあります。
なぜそういうことが起こるのかわからないことがあります。
納得できないことがあります。
理屈では説明できないことがあります。
マイナスに思えることも、もっと大きな見方をすれば、とても意味あるということが、後になってわかるということがあります。
イジメを決して肯定するわけではありませんが、先ほどの中学生は、伊集院静がいうおとなに道程を確かに歩んでいるということです。
そのように考えると、自分に起こったイジメがすべてマイナスということではないといえます。
そして、同じような体験をしてきた人たちが敬和学園には少なからずいるわけですが、その存在が、学校見学をされる人たちが必ず感じることになる、人間的優しさにあふれた雰囲気、やわらかな空気を作り出していることに気づかされます。
イエス様の言う「神の業が現れるためである」という言葉が敬和学園に実現しているのです。
まさにわたしたちは恵みの中に生きています。
それを自覚しながら新しい1週間共に生きていきましょう。