月刊敬和新聞

2018年2月号より「敬和生の使命は敬和ロスではなく一人敬和で生きていくこと」

校長 小西 二巳夫

いい思いをさせてもらいました
 先日訪ねてきた卒業生の一人がいいました。「敬和でいい思いをさせてもらいました」。「うん?」とけげんな顔をした私に彼は重ねていいました。「思い出ではありません。いい思いですよ」。なんともうれしい表現でした。敬和学園は学校生活そのものを大切にしますが、その目的ははっきりしています。6月の二日間にわたるフェスティバルの閉会礼拝で私は必ずいいます。「敬和は思い出づくりの学校ではありません。行事は今を生きる力を養うために行うのです」。彼はそれを覚えていてくれたのです。いい思いとは自分が大切にされた、愛された、受け入れられた、幸せな高校生活を過せた、ということです。しかし私は卒業礼拝の日には次のようにいいます。「敬和生活は今日でおしまいです。敬和生活をいい思い出にしてください。過去にしてください。新しい道にしっかり踏み出してください」。

○○ロス
 最近「いい思い出」に重なる表現を聴かされることがしばしばあります。それは「敬和ロス」です。「私今敬和ロスなんです」。「Aさん、敬和ロスにはまっていますよ」。4年程前から使われ始めた言葉に「○○ロス」があります。一種の流行語です。たとえば大好きになったテレビドラマの○○が終わって、さみしい、つらい、やる気が出ない、喪失感に襲われている、という場合に使われます。
 それに重ねて、新しく生きる場所が、期待していたような学校ではなかった。コミュニケーションが表面的で人間関係が深まらない。そうした時に敬和はよかった、なつかしい、あの時に戻りたい、との思いを表現したのが「敬和ロス」です。これはある意味敬和学園の人間教育を評価してくれる言葉です。しかし敬和学園は自分たちの教育を評価してもらうことが目的の学校ではありません。あくまで人生の通過点でいい、それ以上の評価は求めてはいません。その学校にとって「敬和ロスです」との表現は教育にまだまだ改善の余地がある、発展途上であるといわれていることでもあるのです。

校長 敬和ロスにならないでくださいね
 先日通りすがりに卒業を目前にした三年生から声をかけられました。「校長、四月から敬和ロスにならないでくださいね」。一月末の全校礼拝の後、私が三月末で校長を辞めること、そして理事長も辞めること、新潟からいなくなることを伝えました。彼女の一言はそれを前提にした気遣いの言葉であったのです。最近とみに感じるのは、敬和の生徒って何でこんなに自分の表情を素直に出せるのだろう、学校全体の空気がなんてやわらかいのだろう、こんな学校はめったにあるものではない、ということです。私が新たに働くことになる高知のキリスト教学校は大変厳しい状況にあります。このままでは数年後に立ち行かなくなることは明白です。その学校で敬和を基準に教育をそして生徒を考えたら、落ち込み、自分は何でここに来たのだろうとなるかも知れません。まさに敬和ロスでしょう。

ロスは英語のザ、一人敬和でやっていく
 ロスを英語(喪失)ではなくスペイン語にするとまったく違ったことになります。スペイン語のロスは複数形で単数形にするとエルとなり、英語の冠詞the・ザにあたります。そうすると敬和ロスはザ・敬和となり、今風にいうと「一人敬和」です。一人○○というのは、群れるのではなく、一人で食事を楽しむ、旅を満喫する、など一人の時間を大切にすることです。新たに生き始めた場所や学び始めた学校で、新しく出会った人たちとコミュニケーションをとり、共働のおもしろさや達成感を周囲に伝えていくなど、敬和で培った生きる力を発揮するのが「一人敬和です」。それが敬和学園で三年間の学びを終えた人に求める本当の敬和ロスです。しかも一人敬和といいながら、敬和エルではなく敬和ロスと複数形なのはなぜでしょうか。一人敬和で生きようとする、そこに必ず共に歩んでくださるイエス・キリストがいるのです。一人敬和はイエスとの二人三脚なのです。決して孤立はしない、孤独感にさいなまれることなどないのです。私も4月から16年間の敬和生活で養ってもらった生きる力をベースに新しい学校で「一人敬和」を楽しみたいと思います。