毎日の礼拝

校長のお話

2015/08/31

「たとえを用いて話す理由」(マルコによる福音書4章10~12節)

しばらく前に中学高校の同級生から電話がありました。
11月に4人で新潟に旅行に来る、その際カニをいっぱい食べたいので、そのあたりの手配をよろしく、という内容の電話でした。
しばらく話している中で彼が言いました。
「I先生が死んだそうや。知ってるか」。
I先生は中学の英語の先生でした。
中3の9月から病気になったクラス担任に代わって、急きょクラス担任になってくれた人でした。
当時30歳半ばだったと思います。
滑舌がよくないこともあって、言っている冗談がよくわからない先生でした。
私は中学の3年間、I先生から叱られたことがありませんでした。
ただの1回を除いては。
それは3年の10月頃だったと思います。
英語の授業中かホームルームの時間か忘れましたが、確かに言われたのです。
「小西、そんなことも知らないのか。それは恥ずかしいで。もうちょっとしっかりやらんと人生困るで」。
シチュエーションは覚えていません。
でも確かにそういわれたのです。
はっきり覚えているのは、その一言に恥ずかしくなって赤い顔をして下を向いた自分の姿です。


今から50年も前のことです。
中学時代の私は勉強をきちんとするとはお世辞にも言えない子どもでした。
でもそんなに恥ずかし成績をとる生徒でもありませんでした。
言葉としてはよく使われるけれど、実際は何の意味も持たない「やればできるはず」のそのままの生活を送っている中学生でした。
ですから逆に何事にもある程度の自信はありました。
勉強はもう一つでしたが、その分本や新聞をよく読んでいたので、それなりに世の中のことはわかっているつもりでした。
その私に「お前はこんなことも知らないのか。それはあまりにも恥ずかしい」と言われたのです。
グサッときました。
しかもそれを日ごろは冗談ばかりいっている人だっただけに、余計にグサッと来たのだと思います。
この出来事を通して私が骨身にしみてわかったことがあります。
それは、自分は知っているようで実は何も知らない、知らないことやわからないことがたくさんあること、しかも知らないことは単に知らないにとどまらず、時としてそれはものすごく恥ずかしことだということでした。
その時のきつい一言がなかったなら、私は自分のことを勘違いしたままの人間だったかも知れません。


今日の聖書にはイエス様と弟子たちのやり取りが書かれています。
内容は「たとえ話、たとえ」についてでした。
イエス様という人は周りの人たちに難しいことは言いませんでした。
難しいことをみんなにわかるように話せる才能を持った人でした。
当時の社会が大切にしていたルールに律法というものがありました。
律法の数は600以上あったようです。
その律法をどれだけきちんと守れるかどうかが幸せになれるか、立派な人間かのバロメーターになっていました。
いうなれば人々はルールに縛られながら生きていました。
その人々にイエス様は言ったのです。
律法の数はたくさんある、けれどそれらを言い換えたら2つになる。
それは「神を愛し、隣人を愛する」ことだ。
それを大事に生きていけば、それで申し分ない。
弟子たちはそういうイエス様と一緒に行動し、日ごろからいろいろ聞かされている自分たちは大事なことがわかっていると思っていたに違いありません。
その自分たちに比べたら周りの連中は何もわかっていないなと思えたのでないでしょうか。
そういうこともあって、周りの連中はイエス様がわかりやすくたとえ話を使いながら、大切なことを話されているのに理解できていない、情けないと奴らだと批判めいたことを言っていたのかも知れません。
その弟子たちにイエス様が思いもかけないことを言ったのです。
それは「たとえ話でいろいろ話すのはみんなによくわかってもらうためではない。
むしろこんなことをいってもわからないだろうということを、わからせるためだ」ということでした。
弟子たちはイエス様のこの一言にぎょっとしたはずです。
彼らはイエス様が何を言おうとされているのか、よくわかりませんでした。
わからないということは考えなければならないということです。
そこでだんだんとわかってきたことは、イエス様はそこにいない人たちではなく、いろいろわかっているとある種の自信を持っている弟子である自分たちを批判されていることでした。
お前たちこそ私が普段から言っている大切なことを何も理解できていない、知らないのだ、と言われたのです。
恥ずかしかったと思います。


弟子たちに対するイエス様の厳しい問いかけは私たちに対するものでもあります。
イエス様が一番大切にされたこと、それは平和に生きるということでした。
すべての人が平和な状況に生きることのできる社会、それをイエス様は何より求められました。
そして私たちが知っているようで知らないのが、平和とは何かということです。
たとえば戦後70年間、平和は当然のようにありました。
憲法によってそれは保障されてきました。
平和は当たり前にあるもの、与えられたものと考えてきた人、少なくありません。
しかし今多くの人が平和について真剣に考えるようになりました。
それはイエス様の言うように、平和は当然のものとして与えられるものではなく、作り出すものであることを、自分のこととして知るようになったのです。
私たちに今求められているのは、平和は非暴力によって守られるものとの考えに立つことです。
平和は作り出すものである、との考えに立ってこの時を生きることです。
「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」。
イエス様のこの呼びかけを大切に共に一週間を歩んでいきましょう。