月刊敬和新聞

2009年9月号より「礼拝は一日にして成らず -敬和学園は礼(拝)に始まり礼(拝)に終わる学校です-」

小西二巳夫(校長)

武道は礼に始まり礼に終わる
 今から40年数年前、わたしは中学校入学と同時に剣道部に入りました。入部の最大の動機は母親の一言でした。「剣道をすれば礼儀正しい人間になれる。それに背も伸びると新聞に載っていた」。家族や小学校の先生から「おまえはズボラな人間や」といわれ続けてきたわたしには自分を中学校で変えたいという願いがあり、そのためには「礼に始まり礼に終わる」武道がいいと考えたものの、柔道は痛そうだ、それに比べて剣道は袴に防具と着ける姿が見た目もそれなりにカッコいいかなと、安易な気持ちで剣道部に入ったわけです。残念ながら背が伸びるというのには根拠がなかったようです。少なくともわたしには当てはまりませんでした。最近「礼に始まって礼に終わる」という言葉に重ね合わせて思うことがあります。「敬和学園は礼拝に始まり礼拝に終わる学校」。

先輩の背中を見ながらの全校礼拝
 このところの全校礼拝の様子は誇るべきものです。礼拝の席順を考えた場合、ふつうは1年生が前列、その後ろに2年生が続き、3年生は一番後ろでしょう。しかし敬和学園の礼拝の席順は逆です。3年生が一番前に座っています。これは3年生の礼拝に臨む姿勢を下級生にしっかり見てほしいからです。3年生の背中を見ることによって、自分の今を見つめ、1年後、2年後の自分をイメージしてほしいのです。背中を見つめながら生きる、これはイエス様の背中を追い求めながら今を生きることを、自分のあるべき姿と考えるキリスト教の考えが根底にあるからです。8時40分に予鈴のチャイムと鐘の音が流れます。これを合図にチャペル内外にいる生徒は自分の席に向かいます。45分になるとクラス担任が出欠席を確認していきます。50分になると司会の生徒が「これから礼拝を始めます。黙祷してください」とコールをします。この司会は3年生の富士クラスから順番に行います。礼拝の司会は敬和生活でただ一度だけ与えられた機会でもあります。司会者の合図に一拍置いてパイプオルガンの前奏が流れます。

奇跡は一日にしてならず
 次に全員起立してその日の讃美歌を歌います。この讃美歌の場面で奇跡とも言えることが起こっています。3年生は富士クラスから蔵王クラスまでの6クラスの生徒がそれぞれ6人掛けですわっていますので、最前列は36人となりますが、その36人全員が讃美歌を持って歌っているのです。それは当たり前のこと、自慢げに言うようなことでないと思われるかもしれませんが、実際にはそうはなりにくいのです。誰かしら何も持たずただ黙って突っ立っているのがふつうです。36人がきちんと讃美歌をもって歌う姿は壮観です。当然讃美歌を歌う声も大きくなります。今は毎日歌声がチャペルに響いている。時には2部、4部合唱になることもあります。まさに奇跡と呼ぶにふさわしい光景です。

自分が変れば周囲も変る
 こうした子どもたちの変化を考えている最中にあることに気づきました。それは子どもたちに先立つ形で、礼拝に臨む教師の姿勢も変ってきているということです。その一つが礼拝の話はクリスチャンであるなしに関わらず教師全員が行うことがあります。1人の教師が少なくとも年1回か2回は必ず行います。その際原稿を作って事前に宗教主任に提出しなければなりません。その理由は聴覚に不自由さをもっている子どもたちがいるからです。礼拝前に原稿は必要な子どもたちに配られます。「礼拝は最も大切な授業」であると考えているわけですから、聴き取りにくいことに配慮するのは当然です。原稿を作ることによって、教師の話に変化が起こってきました。何より話の意図が明確になったことです。不必要な言葉の繰り返しがなくなりました。おかげで話がだらだら長くなって授業に影響することがなくなりました。聴く側の集中力も途切れなくなりました。わたしたちの姿勢が変わってこそ、子どもたちも変り、成長するのです。その当たり前のことを、全校礼拝を通してあらためて実感させられているこの頃です。