月刊敬和新聞

2010年4月号より「輝く自分になるために ~43回生に願うこと~」

小西二巳夫(校長)

わたしが好きなもの
 わたしが敬和学園で働くようになって、自分の中に小さいけれど好きなものがたくさんあることがわかるようになりました。正確に言うと、好きなものが好きと素直に言えるようになったのです。好きなものをいくつか並べてみます。学校見学の案内で屋上に上がったときに左前方に見える佐渡ヶ島、右前方に粟島が見えたときは「やった」と声を上げたくなります。上から見下ろすことになるチャペルの十字架も好きです。授業終了後に壁越しに聞こえてくる校長室前の廊下を掃除しながら交わされる先生と生徒の何でもない会話、敬和生活後半を迎える上級生がすれ違う際に見せてくれるやわらかな表情、これらはたまらなく好きです。夜にわたしの家の前から聞こえてくるゴミステーションに向かってリヤカーを引っ張る寮生の嬌声、受け持っている選択聖書の時間のテーマが核心に触れたときのクラスにみなぎる一瞬の緊張、毎朝の全校礼拝の話に全校生徒が集中しているなと感じる瞬間、どれも大好きです。

敬和学園は存在と人格を否定しない学校
 以上はいうなればちょっとかっこいい好きなものですが、これらの他にわたしには個人的でヘンと思われる好きなものがあります。昼食時の友愛館の牛乳瓶同士が当たってカチャカチャする音、学校前のパン屋さんエミタイの厚切り食パンを焼いて、たっぷりのバターと甘いものが苦手な人が見たらギョッとするであろうほどたくさんのジャムを塗ったのを食べ終わった時の満足感、説明書き通りに作ってふわっと焼き上がったホットケーキにナイフを入れるときの感触、スキー場でリフトに乗る前にスキー板の裏に塗るワックスの臭い、などなど他の人から見ればどうでもいいようなことの中に、わたしの好きなものがたくさんあります。わたしがこうしてふつうはちょっと恥ずかしくて言えないことを平気で言えるのは、敬和学園には存在とその人だけが持っているものを否定せず排除しない空気があるからです。 そして何より聖書の言葉を本気で信じている学校だからです。

敬和学園は聖書の言葉を本気で信じる学校
 新約聖書ヨハネによる福音書15章13節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」とあります。43回生となった人の多くは、自分が進学先として敬和学園を選んだと考えているはずです。しかし敬和学園はみなさんが選ぶ前に神様が一人ひとりを選んで入学させてくださったと考えているのです。神様が選んでくださった以上、その人の人格や個性を大切にしなければならないのは当然です。さらにマタイによる福音書18章12節以下に次のように書かれています「…ある人が羊を100匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残しておいて、迷い出た羊を探しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた99匹より、その一匹のことを喜ぶであろう」。この言葉は一人の存在の大切さと人間の持つ弱い部分こそが大切にされなければならないことを教えてくれています。その一方マルコによる福音書9章43節には「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」とたいへん厳しい言葉が書かれています。

人は自分を好きになると輝き始める
 敬和学園は聖書に記されている無限に広がるやさしさと徹底的な厳しさの間で、一人ひとりを真正面から受けとめてきたのです。そして、敬和生は幅の広いやさしさと厳しさの中で学校が好きになり、安心して自分を出せるようになるのです。好きなものが好きと言えるようになると、間違いなく自分自身が好きになります。人は自分自身を好きになってこそ輝くことができます。自分が好きになるとは、自分の人生を力強く生きることであり、他者のために自分の持つ力や才能を使いたくなることであり、他者の弱さを大切にできる強さを持った人になることでもあるのです。43回生に願うのは3年間の敬和生活を通して、小さな好きなものをたくさん見つけ、自分自身を好きといえる人になってほしいことです。