月刊敬和新聞

2010年8月号より「鳴かぬなら、代わりに鳴こうホトトギス」

小西二巳夫(校長)

シーモ「コンティニュー」
 シーモというラップミュージックを中心に活動するミュージシャンがいます。彼の曲に「コンティニュー」があります。歌詞の一部を紹介します。 「あきらめる? あきらめない? 決めるの自分 広げてもいないんじゃない? その地図 失敗を顧みず 追えば追うほど 輝き増す夢 君はまだ 自分の可能性 試してないんだ you know I’m saying? せっかく生まれてきたなら もう少し頑張ってみな 負けたら終わりじゃなくて やめたら終わりなんだよね どんな夢でもかなえる魔法 それは続けること 苦しみ 悲しみ その先見える光 自分の道 ずっとずっとコンティニュー」。 「コンティニュー」の負けることを恐れずやり続けるなら、夢は必ずかなえられる、という言葉に励まされる人は多いようです。わたしといえば、この曲を聴くと無意識のうちに思い出すことがあります。それは、一つのことを続けることができない自分にコンプレックスを感じながら学校に行っていた子どもの頃のことです。小学校の通知表に担任の先生から「あきっぽくあきらめやすい性格であり、継続性に乏しい」と書かれたわたしです。勉強や生活でコンティニュー(続ける)することは何より苦手でした。「どうしてぼくはだめなんだろう、みんなと同じようにできないんだろう」と自分を否定的に見ていました。

ホトトギス・鳴かぬなら・・・
 人間の性格を歴史上の人物を使って表す言葉があります。「鳴かぬなら 鳴かせてみせようホトトギス(豊臣秀吉)」、「鳴かぬなら 鳴くまでまとうホトトギス(徳川家康)」、「鳴かぬなら、殺してしまえホトトギス(織田信長)」。それぞれが持っている才能と行動力、がまんと忍耐力、精神的強さをうまく言い表しています。子どもの頃、「あなたは3人の誰に近いと思いますか」と尋ねられたことがありますが、自分がどのような人間であるか自信を持って答えることはできませんでした。3人の誰にもなれない、近づけない中途半端な自分を思い知らされ、そんな自分が嫌でたまらなくなりました。そのわたしがある時期から「まあいいっか、こんな自分でも、それはそれでゆるされているのでは・・・」と思えるようになりました。 それは自分を計る物差しが一つではないことに気づかされたからです。自分をむりやり一つの枠に入れる必要はないことを知ったからです。

鳴かぬなら、代わりに鳴こう・・・
 それをホトトギスに例えるなら、「鳴かぬなら鳴かなくてもいいホトトギス」、「鳴かぬなら代わりに鳴こうホトトギス」ということもあるのです。そういう言葉でわたしを真正面から受け入れてくれる存在がいることがわかったからです。それはイエス・キリストでした。イエス・キリストが十字架にかかったのは、人間の罪を代わりに背負うためだというのがキリスト教の考え方ですが、それを言いかえるなら、まさに「鳴かぬなら代わりに鳴こうホトトギス」です。そういう形で自分という存在が受け入れられていると知ったとき、わたしなりにがんばろう、やれることは精一杯やってみようという気持ちになりました。生きるエネルギーも出てきました。

敬和学園は「能力」ではなく「存在」を受け入れる学校
 高校の人を計る物差しが一つだけだったら、テストの点数が高いか低いかによって、その人ができるかできないかを、良いか悪いかを評価をしてしまいます。しかし、それはあくまで一つの考え方です。キリスト教は人を計る物差しが一つではなく、たくさんあると考えます。キリスト教の学校の敬和学園にはたくさんの物差しがあります。子どもたちの数だけ物差しがあると考えています。一人ひとりをそうした考えで真正面から受けとめます。敬和学園はその人を「能力」ではなく「存在」で見る高校、受け入れる学校です。ですから一人ひとりがいつの間にか内側から輝きだすことになり、自分で持っている力を引き出すことになるのです。 「鳴かぬなら、○○○○、ホトトギス」。あなたは空欄にどのような言葉を入れたいですか。一人ひとり空欄に入る言葉は違っていていいのです。3年間かけて何が入るかを一緒に考えていきましょう。そこに生きる本当の楽しさ、学ぶ楽しさがあります。