自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
小西二巳夫(校長)
フェスティバルを行うか中止するか
いわゆる点数だけで学力をはかることを教育の中心に置かない敬和学園にとって、行事や集会は一過性のイベントではなく、日々積み上げていく教育の大切なプログラムです。6月のフェスティバルもその一つです。フェスティバルは前年度後半から取り組みが始まりますので、新年度早々から相当盛り上がります。ところが今年は例年と違う状況になりました。3月11日に東日本大震災が起こったからです。翌日朝の2010年度の終業礼拝で、わたしは次のように話しました。「敬神愛人を建学の精神にする敬和学園にとって、2011年度を震災とかかわりがないように歩むことはできない。震災の被災者、被災地と共に歩むことを神さまは求められているはず。その求めにしっかり応える取り組みを教育の中で行いたい」。この言葉を真正面から受けてくれた3年生は、自分たちが中心になる今年度のフェスティバルを行うかどうかを話し合いました。中央執行部会でさらに意見が交わされ、最終的には生徒総会を開いてようやくフェスティバルを震災を意識した形で行うことで開催を決めたのです。
被災者支援労作
被災者支援の取り組みは、200万円を目標とした支援募金から始まりました。被災地には寮務教師が寮備蓄の食料や水を持って震災発生の二日後に向いました。そうした活動を何度か行い、彼らはこの間ガレキ処理のボランティアにも参加しました。5月の連休中には野球部員と寮生中心の二つのグループが相前後して、仙台近郊で被災者支援労作に出かけました。後者のグループの労作中に思わぬことが起こりました。それは個人住宅のヘドロとガレキの処理をしていた二人の教師が気分を悪くしてしまったのです。人一倍力を出して働いていた彼らは、暑さと息苦しさから防塵マスクやゴーグルをついついはずしていたのです。気分が悪くなったのは、渇いた土ぼこりが風によって舞い上がり、それを吸いこんだのが原因と思われますが、そこにもっと根源的なことがあるように思います。わたしはその場面に立ち会うことを通して、聖書が語る真実をあらためて実感することになりました。
人は土のチリで造られた
旧約聖書の創世記2章に「主なる神は土の塵(ちり)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と書かれています。土のチリで造られたという言葉によって、これまで人間の存在とは何か、その人間がどのように生きるべきかを、たとえを使いながら伝えていると考えてきました。人間は謙虚に生きてこそ価値あるものになるということでしょう。しかし今回の被災地支援労作の中で、「人間は土のチリで造られた」ことが言葉だけにとどまるのではなく、深いリアリティーをもっていることが分かりました。教師たちが土のチリを吸って気分が悪くなったのは、津波によって命を失った方の悲しみや無念さ、そこに住んでいた方の悔しさや涙を吸ったからです。土のチリとして生き亡くなった方たちの思いを吸いこんだからです。
土のチリとしてしっかり生きたい
被災者支援労作を行ってよくよくわかったことは自分たちの無力さと非力さです。20人がまるまる二日間そこそこがんばって達成できたことは何ほどのことでもありませんでした。被災地で生きていかなければならない人たちの、痛みと悲しみのわずかな部分さえも共有できなかったと思われます。人間の存在の小ささをあらためて教えられた気がします。ただし、土のチリで造られたことが本当であるならば、その土のチリに神様が命の息を吹き入れて下さることによって生きたものとなることもまた本当であるはずです。そこに無力で非力なわたしたちの希望と未来があります。土のチリとして生きる限り、神さまが必ず命の息を吹き入れて下さるのです。そのことを信じながら被災地のみなさんと共に歩む敬和学園でありたいと心から願います。