自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
小西二巳夫(校長)
映画・奇跡
「奇跡」という映画があります。主人公を演じているのは、お笑いコンビとして活躍している「まえだまえだ」の兄弟です。大阪で暮らしていた一家四人は父と母が不仲になり、別々に暮らすようになります。小学校六年生の兄は母の実家がある鹿児島で、四年生の弟は父が音楽活動を再開した博多で生活を始めます。兄の口癖は「意味わからん」です。鹿児島市は対岸の桜島が噴火し続けているので、常に火山灰が降っています。風向きによって、それが町に積もります。その桜島を恨めしげに見ながら言います。「何でこんなところに人がようけ住んでんねんやろ、意味わからん」。事あるごとに「意味わからん」を連発します。この一言で、今の自分の生活に不満と不足があることを表しているのです。兄の不満の奥底にあるのは、今の生活が自分の生活ではない、本当なら今も大阪で生活しているはずという思いです。それがすべてを面白くなくさせているのです。
家族より世界をとる
その頃、九州新幹線が全線開業することになります。学校に行くと噂話が耳に入ってきます。それは九州新幹線の全線開業を祝う博多発と鹿児島発の一番列車がすれ違う瞬間に、願い事を掛けたらかなうというものでした。 桜島が今までにない大爆発をしたら、鹿児島に人が住めなくなり大阪に戻れる、と考えた兄はその噂話に自分のこれからを掛けます。そして弟を誘います。こうして兄弟は、鹿児島と博多から、親や学校には内緒で、また友だちを誘って、新幹線がすれ違う熊本県の宇土で落ち合います。新幹線がすれ違う瞬間、友だちは口々に願いを叫びます。女優になれますように、速く走れますように、絵が上手になりますように・・・。 ところが、兄はその瞬間ためらった表情を見せ、結局何も言いませんでした。なぜあれほど願っていたことを叫ばなかったのでしょうか。帰る道々弟に言いました。「ぼくなあ、家族より世界を取ったんや」。もし桜島が大爆発をしたら、自分たちは再び四人で、大阪で暮らせるかもしれません。けれど、そのためにたくさんの人たちが不幸になります。それに気づいたために、自分の願いを叫べなかったのです。 兄は身勝手な考え方や生き方が、本当の意味で自分を幸せにしてくれないとわかったのです。
聖書の奇跡
旧約聖書に海が二つに分かれるスケールの大きな奇跡が描かれています。新約聖書には、死んだ人が生き返るなど、イエス・キリストが行った奇跡がいくつも書かれています。でも大きい小さいに関係なく、奇跡を通して聖書が伝えようとしていることの一つに、その出来事を通して、人がどのように生き方を変えたかがあります。自分で変えようとしてもなかなかできません。それが奇跡という出来事を通して可能になるのです。桜島の大爆発を願わなかった兄に、弟も違う願いを掛けたといいます。それは彼が博多に戻ってからわかります。音楽番組に出演することが決まって喜ぶ父に言いました。「僕のおかげやで」。それでは兄に奇跡は起こらなかったのでしょうか。熊本から戻ってきた夜、兄はベランダに出て、舐めた人差し指を少し上に掲げます。いわゆる風向きを調べる動作です。兄は一言言いました「明日は積もらへんな」。この一言によって、彼があれほど嫌っていた桜島の火山灰と一緒に生活しようとする人に変わったことがわかります。現実をしっかりと受けとめ、その現実を抱えながら、なお前向きに生きようとすることが兄に起こったのです。兄の表情や言葉の変化は家族や友達からすればまさに奇跡であったに違いありません。「意味わからん」を連発することはもうないでしょう。
奇跡が日常的に起こる学校
さらに気づかされることがあります。兄が家族ではなく世界を選んだというように、自分中心ではなく、いうなれば、隣人のことをしっかり考えた時、奇跡が自分自身に起こるということです。映画「奇跡」から気づかされるのは、奇跡と呼ぶにふさわしい生き方の変化が敬和学園では日常的に起こっていることです。「神を愛し隣人を愛する」学校で三年間過ごす中で、それぞれにふさわしい形で奇跡が起こることを信じ願うのが敬和学園です。新幹線がすれ違う際に起きるエネルギーが、もし奇跡を起こすなら、敬和学園の毎日の全校礼拝、そして自分たちで作り上げる行事、そして今回の東日本大震災被災者支援労作は、一人ひとりに奇跡をもたらすエネルギーとなるはずです。