自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
小西二巳夫(校長)
サル科とヒト科の決定的な違い
霊長類の中にサル科とヒト科があります。ヒト科に属するのは人間、チンパンジー、オランウータン、ゴリラです。サル科とヒト科の違いに笑うか笑わないかがあります。笑えるのはヒト科の特徴です。さらに決定的な違いは目を合わせられるか、合わせられないかです。ニホンザルは人と目を合わすことができません。こちらが目を合わせようとすると、自分の方から逸らします。それでもこちらが合わせようとすると、キィッーと叫んで逃げ出すか、飛びかかってくることになります。サル科には目と目を合わせるコミュニケーションはないわけです。それとは違い、ヒト科は相手の目を見ることによって、相手が何を考えているか、どのような心理状態にあるかを推し量ることができます。また、相手の目を見ながら、自分がどのような態度を取るべきか、どのような対応をするかが判断できます。ヒト科の中でも特に人間は、お互いが目を合わしながら言葉のやり取りが可能です。それによって関係を作り社会を築いていくのです。
目を見て語れ恋人たちよ
阿久悠という日本の歌謡曲史上に大きな足跡を残した作詞家がいます。10数年前の作品に「目を見て語れ恋人たちよ」があります。 「一.いつの間に きみたちは 面と対かって 話せなくなった 電話では あんなにも 夜が朝になるまで 話しつづけていたのに 人間と人間は やがて 重たくなってしまうから 逃げ場所を 用意して 遠い会話ばかりで 心つないでいるのか 二.目を見て語れ 恋人たちよ 瞳の色の真実を 時に怯える瞼の動きを 心いためて探り合えよ それが愛になる それが愛になる お互いを 語るのに 衛星のたすけを借りて どうするの すぐそばにいる人の 胸のふるえ感じる 何か変化があったか・・・」。この歌詞はケータイやインターネットメールがまだそれほど当たり前になっていない時代に書かれたものですが、「目を見て語れ…」「衛星のたすけを借りて…」から、お互いが目を見て話すことをしなくなり、人間関係の薄い社会になり、そのためにかえって生きにくくなっている今を予言する作品になっています。
メールの返事は早く短くが常識?
先日妻がケータイを手にして悪戦苦闘していました。しばらく前にもらったメールに返事を書かないといけないので、慣れない手つきで文字を打っていたのです。30分以上かけてようやく打ち終え送信しました。すぐに返事が返ってきました。そのメールには次のように書かれていました。「メールの返事はすぐに下さい。それからあまり長い文章を打たないでください。読みづらいですから」。いくらキーボードやボタンを打つのに長けているとしても、画面上の会話に精通しているとしても、ヒト科の生き物に与えられた恵みと特権である目を見て話すことも、笑うこともしないのでは、ある意味人間を止めることと言えます。与えられた恵みと特権を捨てるかのようなコミュニケーションに夢中になればなるほど、大切なものを失い、自分を失っていくことになります。
格好は許せんけど、その素直さは許せるなあ
学校の廊下で子どもたちとすれ違う際、私が声をかける前にたいていは彼らの方から言葉が出てきます。私の顔と目を見て「こんにちは」と声を出してくれます。特に3年生はそうです。そうでない場合もあります。その時私はわざと言います。「おいおい、君の前にいる俺は誰や。知り合いやろ。知らん顔はないで」。考え事をしていて声をかけそびれたのかもしれません。悩み事があって「こんにちは」どころではなかったのかも知れません。でも目の前にいる人の目を見て言葉を発することは何にも増して大切なことであるはずです。前から歩いてくる子どもの服装と足元がしばしば気になることがあります。私は彼の目を見ながら言います。「靴!」「シャツ!」。それでもって靴のかかとを踏んでいるから、シャツが出ているから、直しなさい、と注意しているわけです。すると、たいていは生徒はこちらの目を見て、ニコッとしながら言葉を返してきます。「すいません。気をつけます」。そこで私はもう一度言います。「格好は許せんけど、その素直さは許せるなあ。最高やなあ」。敬和学園には相手の目を見て話すコミュニケーションは変わらず存在し、本物の人に育ちつつある子どもたちが当たり前のように存在しているのです。