月刊敬和新聞

2012年3月号より「アマチュア(愛する人)にこだわる」

小西二巳夫(校長)

アルチザン(職人)
 私が「さあやるぞ」と小さな決心をして、締め切りが迫っている原稿などを書くために、机の前に座ったときに、決まってかける曲があります。それはシンガーソングライター山下達郎のアルチザン(職人)というアルバムです。一曲目は「アトムの子」です。調子のいいリズムによって何となく心が奮い立ってきます。それから「さよなら夏の日」「ターナーの汽罐車」と続く間に、心が落ち着いてきて、そのうちに音楽がかかっていることを忘れて、気がついたらCDは止まっていた、となります。この原稿もそのプロセスの中で書き始めたのですが、山下達郎がなぜこのアルバムにフランス語のアルチザン(職人)というタイトルをつけたのだろうかとふっと気になりました。アルチザンと言えるにはいくつかの約束事があると思われます。手が動き指が動いて、同じ物を作り出すことができる技術があってこその職人です。作る度に出来上がりが違っていてはだめでしょう。依頼された物の納品期日を守ることが大事です。間に合いませんでしたでは済みません。職人が作るのは日常生活の中で使われる道具です。出来上がりがいくら芸術的でも、それは製品と呼ばれます。アルチザンの喜びは使ってもらうことにあるように思います。

アーチスト(芸術家)
 山下達郎は「音の職人」を自負していますが、その活動から考えるとアーチストの領域の仕事をしている人です。アーチストの手によるものを作品と呼びます。その作品に触れることによって、人は希望を感じたり、痛みや悲しみを覚えたりするわけです。そこにアーチストの喜びがあります。アーチストに求められるのは創造力と想像力ではないでしょうか。他の人には持てない発想や感性を見える形にして、音にして表現できる能力です。ある彫刻家が「私の仕事は素材を彫って削って形にすることではなく、その素材自らが望んでいる形に彫りだすこと」と言っています。物言わぬ木や石が自ら求める形を考えたり見えたり、というのは創造と想像の領域・世界の事柄です。

敬和学園の教育をアルチザンとアーチストから考える
 敬和学園の教育をアルチザンとアーチストから考えたらどうなるでしょうか。敬和学園とそこに働く教員には、他の普通科高校と同じようにいくつものことが求められます。一つは学力をつけること、大学等に進学をさせることです。そのために、学習をさせ、数字等の結果を出すことに長けた教員を進路指導あるいは授業の職人と呼ぶことができるのかもしれません。さらに生徒が問題を起こさないために生活指導の職人が求められているように思います。学校にはそうしたアルチザンが必要なのかもしれませんが、それだけでは、子どもたちは人間的・内面的に十分成長できないのです。敬和学園は学力も人間性も外側から内側に詰め込むものではなく、内側から引き出すものと考えています。つまり、教員には子どもたちの才能や人間性を内側から引き出す創造力と想像力を持ったアーチストであることが求められているのです。

プロでありつつアマチュアでありたい
 アルチザンもアーチストもそれを職業とするプロフェッショナル、専門家である点では同じです。敬和学園の教員も教育のプロであることは間違いありませんが、それに加えてアマチュアであることが求められます。「素人」でいいと言う意味ではありません。英語のアマチュアはラテン語のアマトール(愛する人)に由来し、それがフランス語を経てアマチュアとなったと言われています。つまり子どもを愛することなしには敬和学園の教育は成り立たないのです。敬和学園の建学の精神は敬神愛人(神を愛し、隣人を自分のように愛する)です。「愛する」と言う日本語は感覚的には上から目線です。上から目線の教育となると敬和学園にはふさわしいとは言い難くなりますが、聖書の中で愛すると訳されている原文ギリシャ語が元々持っている意味は「大切にする」です。敬和学園を指してよく言われるのが「一人ひとりを大切にする学校」です。と言うことは、はからずも一人ひとりを大切にするという仕方で、子どもたちを愛する学校になっているのです。新たに始まる年度を、想像力豊かなアーチストの要素を持ったアルチザンでありつつ、同時に教育のプロに徹しつつ、なお子どもたちを愛し大切にするアマチュアの精神を強く持った学校として、歩んでいきたいと心から願います。