自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
小西二巳夫(校長)
全校礼拝の毎朝の様子
敬和学園の一日はチャペルでの全校礼拝から始まります。朝8時30分過ぎ、各方面から到着したスクールバスを降りた生徒は、自分の教室に荷物を置いて三々五々チャペルに集まってきます。部活の朝練習を終えた生徒や寮生も同じようにやってきます。45分に礼拝が始まる予告のチャイムとオルゴールが鳴ります。敬和生活で一度だけ体験できる礼拝の司会に当たった生徒が、司会者席で文化委員長から進行の確認を受けます。奏楽担当の生徒は緊張をほぐすかのように、手の指をパイプオルガンの鍵盤の上を滑らせています。二人の文化副委員長が手分けをして礼拝黒板に、その日の聖書個所、讃美歌の番号のプレートを張り付け、お話しをする人と奏楽者の名前をチョークで太く書いていきます。クラス担任は席に着いた生徒の顔を見ながら出席を取り始めました。交通事情等で到着の遅れたスクールバスからは生徒が直接チャペルに入ってくることもあります。その日のお話の担当者は十字架を背に左手の椅子に座ります。48分頃、チャペル全体の様子を見ながら文化委員長が「時間になりました。自分の席に座って下さい」とのコールを2回行います。するとそれまで、個人的な会話を交わしていて、相当ざわついていたチャペルに静けさが訪れます。
毎朝であっても緊張する全校礼拝
こうして始まる全校礼拝は毎朝のことですが緊張を強いられます。礼拝の出来次第で、その日の学校全体の雰囲気が落ち着いたものになるか、浮ついたものになるかが決まると言っても過言ではありません。それだけに礼拝にはその一瞬に賭けるとの強い思いが必要です。全校礼拝に特別なものは必要ありません。同じように始まり同じように終わる、とのワンパターンでよいのです。むしろそれが求められます。毎日同じように繰り返される礼拝を通して、生徒は新たな出会いや発見をするのです。それだけに、すっと始まりすっと終わる、そうした礼拝になることを何より願います。静かに始まり静かに終わり、それぞれが教室に向かい、一時間目が始まり一日が終わる、それを何より望みます。
学習への集中力は全校礼拝によって養われる
全校礼拝を毎日行うことで経験的にわかってくることがあります。朝の礼拝が一日の集中力を作り出すことです。礼拝がだらだらとざわざわに終始したら、その日の生活や学習に対する集中力を生み出すことはできません。集中力は文字通りエネルギーです。それは存在や人格を力で外側から抑え込むことによっては作り出せるものではありません。敬和学園の全校礼拝は文化委員長の「時間になりました。自分の席に座って下さい」を二回繰り返すアナウンスから、その日の司会者が「今から礼拝を始めます。目を閉じて黙祷してください」との言葉を発するまでの数10秒間に沈黙の瞬間が訪れます。沈黙とは無音のことではありません。心の中に「し~ん」との音が聴こえてくることです。それは生きるエネルギーが礼拝に臨む一人ひとりの中に入り込んでいく瞬間でもあります。そのエネルギーが生活と学習への集中力となります。そのエネルギーが喜びと成長の一日を作り出します。
礼拝前の沈黙はお話しへの期待が作り出すもの
集中力を高めさせるか切らせるかは担当者の話に大いに関係があります。もし礼拝でいわゆる朝礼でされるような話がされたとしたらどうなるでしょうか。もし上から目線に終始して、良いことを教えてあげる、悪いところを注意するというだけの話がされたとしたらどうなるでしょうか。生徒は黙って静かに聴いているように見えても、考えることを止めてしまいます。心にシャッターを下ろしてしまいます。敬和学園の全校礼拝は時間的に短い話であっても、そこに共感を生むような内容であることが求められます。そこに語る者の自らの悔い改めや告白が込められた時、同じ時間を共有している、同じ場所に生きているとの連帯感と喜びが生まれてきます。それが一日を生きる力となっていきます。それを毎日続けているのです。司会者の礼拝開始のコール前に作り出される沈黙はそうした話がされることへの期待と祈りでもあります。それだけに緊張が強いられるのです。だからこそ礼拝に賭けるのです。それにもかかわらず、礼拝がざわついているとしたら、それはその日一日、ふだんに増して緊張感をもって子どもたちに気配り心配りをしなさいとの、神様からのサインです。