月刊敬和新聞

2012年10月号より「『神の業がこの人に現われるためである』が一つの現実となっている学校」

小西二巳夫(校長)

伊集院 静「少年譜」
 作家伊集院静の「少年譜」には少年が大人になっていく七つの話が載っています。「笛の音」は火事のあった日の明け方、燃料屋さんの家の前に赤ん坊が置き捨てられます。赤ん坊は炭焼き小屋の年老いた夫婦にもらわれて行きます。彼は貧しさの限りを体験します。「親方と神様」の少年は台風で父親と妹を失います。彼は母親が朝一番で駅弁を売り、昼間は駅前の食堂で働き、夜は料理屋の仲居さんの仕事をするという極貧の生活の中で育ちます。「少年譜」は、どのような境遇にある子どもでも、大人になるためには通らなければならない道程が必ずあることを教えてくれます。一つは人としての痛みを若い時に自分の体と心で持って体験することです。もう一つは悔しい思いをすることです。そして、自分だけが耐えているというものを持つことです。それらがあって、人は初めて自分の存在の大切さに気づけると言うのです。これらを若い時に体験することなしに本当の大人になれないことを教えてくれます。

個人的な学校見学
 中学生が敬和学園に具体的に触れる方法としてオープンスクールなどがあります。都合がつかない場合には個人的に学校見学をしてもらいます。年間50組以上が来られます。学校紹介DVDで全体的な雰囲気を感じてもらい、事情を聴かせていただき、できる限り質問に答え、そして授業の様子を見てもらいます。しばらく前に中三の男の子とお母さんが来られました。彼は今の自分の状況を語ってくれました。中二の時に突然彼に対するいじめが始まり、それが今も完全に終わってはいないとのことです。いじめのために心と体が傷つき学校に通うことが難しくなり、クラスの取り組みにも参加できなくて、それを考えれば考えるほど悔しいが、それでもそうしたことに耐えながら学校に通っているとのことでした。私が話を聴きながら確信したのは、いじめを決して肯定するのではありませんが、彼は少年譜の主人公たちのように、大人になる道程を確かに歩んでいるということでした。

ヨハネによる福音書9章「神の業がこの人に現れるためである」
 ヨハネによる福音書9章1節以下に生まれつき目の見えない人をめぐるやり取りが書かれています。弟子が質問をしました。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」。当時の社会では人に現れる不幸や障がいは因果応報によるものと考えられていました。誰のせいに関係なく、目が見えないことは悪いこと、マイナスの出来事には違いはないとの思いを、弟子たちをはじめ多くの人が持っていたのです。ところがイエス様の答えは弟子たちの想像を超えていました。「…神の業がこの人に現れるためである」。神様の恵みをもたらすため、救いの業を示すためだと言うのです。マイナスではなくプラスの出来事、この上なく良いことだと言うのです。神の恵み、救いが現れるとは、目の見えない人を救うためだけではなく、その人を通して、周囲の人たちも同様の恵みに預かれると言うことです。「少年譜」の主人公がそうでした。火事のあった日の明け方に捨てられた子どもは、お寺の和尚さんに勉強を教えてもらい、やがて学者の養子になり、自分も有名な植物学者になり社会貢献をします。台風で父親と妹を失い、母親が朝一番で駅弁を売り、昼間は駅前の食堂で働き、夜は料理屋の仲居さんの仕事をしていた少年は、刃物を作る鍛冶職人の一言に触発されます。後に製鉄会社の社長になって誠実な働きをします。

敬和学園は「神の業がこの人に現れるためである」が現実となっている
 敬和学園には少年譜の主人公のような、そして自分の辛い厳しい現実を語ってくれた中学生と同じような体験を持つ在校生が少なからずいるのです。人間としてのしんどさや痛みを味わい、悔しさを抱え、それらに耐えながら生きてきた人たちがいるのです。その存在と一日一日の取り組みが、今痛みや悔しさを抱えながら過ごしている中学生と家族が学校見学の際に「救われた気持ちになる」柔らかな空気と「自分もここならやっていける」と思える雰囲気を作り出しているのです。敬和学園は聖書が語る「…神の業が現れるためである」との言葉が一つの現実となっているのです。