月刊敬和新聞

2012年11月号より「人間的成長にはエンディングはありません」 ―器楽部ジャズ・ホーネッツ太夫浜コンサートより―

小西二巳夫(校長)

「楽しみ」の違い
 器楽部ジャズホーネッツによる太夫浜コンサートが10月下旬にありました。舞台装置は実にシンプルです。ヒナ段が設けられ、その上に椅子が並べられているだけです。演出としてはライティングとソロ演奏者のための台が正面にあるだけです。そこに自分たちの演奏をしっかり聴いてもらいたいとの意気込みと自信が感じられます。オープニングの演奏を聴きながら、ふっと思い出したのは10年前のコンサートです。当時は吹奏楽の編成で吹奏楽曲と軽音楽を演奏していました。楽器編成やスタイルは今とは相当違いましたが、演奏する人たちの思いもずいぶん違っていたようです。「楽しむ」ということでは同じですが、当時はメンバーが楽しそうに演奏しているのを、コンサートに来た人たちが見て楽しんでいました。ほのぼのとした雰囲気があって、まさに手作りのコンサートでした。それはそれで敬和学園らしくていいものでした。今は「楽しむ」という点では何ら変わりませんが、そこには大きな違いがあります。それは、演奏を聴いている人たちが楽しんでくれることを、自分たちが楽しむという、大人のセンス・感覚になっていることです。技術的レベルも相当上がりましたが、内面的にもハイレベルのバンド、まさにビッグバンドになったといえます。

「聴かせどころ」があってこそ
 ジャンルに限らず実にたくさんの曲や歌が毎日のように作られています。作詞する人、作曲する人、編曲する人、歌い演奏する人たちが、一生懸命いいものを、あるいは売れるものを作ろうとして努力しています。にもかかわらず曲や歌には、人気を得て流行するもの、長い間歌い継がれるようになるものがあると同時に、ほとんど話題にならず一瞬にして消えていくものもあります。たいていはすぐに忘れ去られてしまいます。その違いは何かとあらためて考えてみました。音楽にはまったく素人の私ですが、思いつくことが一つあります。それはその曲や歌が人の耳に残り、聴きたくなり、歌いたくなるのは、その曲や歌だけが持つ「聴かせどころ」があるからではないかということです。そして、それは演奏する人たち、歌う人たちにもいえます。その人の歌や演奏を聴きたくなるのは、その人だけが持っている「聴かせどころ」があるからではないでしょうか。

ジャズ・ホーネッツの「聴かせどころ」
 そこでジャズ・ホーネッツに聴かせどころがあるのか、あるとすればそれは何かを考えてみました。たとえば、音楽が好きで好きでたまらない、楽しそうに吹いているから、一生懸命演奏しているから…だとしたら、それはたいていのバンドやグループが持っているものです。それらとは違う何かがあるとしたら、それは何でしょうか。もともとジャズの魅力とは何かをルーツからたどれば、演奏する人の悲しみや切なさ、そして歓び、さらに人生の理不尽さ、不幸に立ち向かうけなげな勇気と奮闘などが、聴く者の心とシンクロナイズされ、勇気づけられていくところにあるからです。ですからジャズは人生の様々な場面を体験してきた人によって演奏され歌われた時に、聴く側の魂が共鳴し揺さぶられることになります。

エンディングではなくエンドレス
 ということは、それほど長く生きておらず、人生のいろいろな場面に出会うこともまだ多くない15歳から18歳の高校生がジャズを演奏しても、聴かせどころを持ったものにはなかなかなりにくいはずです。にもかかわらず、ジャズホーネッツの演奏がそれなりの人生の機微を含み、聴く側の魂を揺さぶり、勇気づけるという、聴かせどころを持っているとしたら、それはメンバーの多くが、人としての痛み、悔しさ、耐えるべきものを、きちんと持ち、それと向き合いながら生きているからではないでしょうか。ジャズホーネッツのメンバーは音楽の技術的な成長をしながら、それを通して人間的成長をしていっているのです。それがまさにジャズホーネッツの聴かせどころです。6時30分にオープニングした演奏は8時30分のアンコール曲をもって歓声と拍手のうちにエンディングを迎えました。しかし彼らの人間的成長はエンディングを迎えることはないと感じました。そこが聴かせどころの出発点です。