月刊敬和新聞

2012年12月号より「同じ『目』を持つ人になりたい 敬和にはそれがある」

小西二巳夫(校長)

湊かなえ「15年目の補習」
 作家湊かなえの作品「往復書簡」に「15年目の補習」という話が載っています。主人公の純一は高校の先生です。30歳を前に学校を休職して2年間の国際ボランティア隊員として発展途上国のP国に赴任することになります。国際ボランティア隊が文中の説明から実在の団体である青年海外協力隊であることがわかります。純一が青年海外協力隊員となった理由には偶然と必然があります。その日映画を一緒に見に行く約束をしていた万里子から断りの連絡が入ります。待ち合わせの駅でどうするかと考えていた純一の目に偶然掲示板に貼られた一枚のポスターが目に入りました。そこには乾いた大地に生えた大きな木の下で、日本人男性が小さな黒板を片手に、子どもたちに授業をしている風景が映っていました。それは青年海外協力隊員募集のポスターでした。ポスターの下には説明会の案内があり、開催場所は行く予定だった映画館の向かいのビル、しかも開催日時もその日その時刻でした。

自分はどんな目をしているのだろうか
 たまたま出かけた説明会場で純一が目にしたものは「目」でした。説明会を熱心に聴きに来ている人たちの目。体験談を語る帰国した隊員の目。純一はその目に出会って、それが何ともうらやましかったのです。もし自分が青年海外協力隊員として2年間活動すれば、自分も同じ目を持つことができるのだろうかと思いました。さらにその目は、中学生の時に純一の仲間がイジメにあっている時に、それを止めるために輪の中に飛び込んできた時の万里子と同じ目だったのです。純一が青年海外協力隊員募集の説明会で見た「目」を説明するとしたら、それはどのようなものでしょうか。いきいきしている、輝いている、情熱にあふれている、それは間違いないと思います。しかしそれだけであるなら、それまでに別の場所でも出会っていたはずです。加えて何かあるとしたら何でしょうか。青年海外協力隊員として、絶対安全とは言い切れない発展途上国で働きたいのですから、自分の利益だけを求めるのではなく、他者のために働きたい、他者と共に生きたいという強い思いがあるわけです。説明会場は「神を愛し隣人を愛する」との思いを持った人の目であふれていたのです。

私が出会った目
 私は最近、純一が見た同じ目に出会いました。11月の初めに新潟県青年海外協力隊家族連絡会というのがありました。この会は名前の通り、青年海外協力隊員として世界各地に出かけている子どもを持つ親や家族、すでに働きを終えて帰国した隊員、そして自分もかつて隊員として出かけ、今はサポートしている人たちが集まって、報告を聴き交流をする会です。私はその場所で、純一が自分もそういう目を持つ人になりたいと願ったたくさんの目に出会いました。実は敬和学園の身近な人に青年海外協力隊関係者が何人もいます。学校前のベーカリーカフェ・エミタイのマスターで敬和学園を愛して下さっている川島さんはかつて隊員としてアフリカのセネガルで活動されていました。今海外で活動している人には、私が知っているだけでも、26回生のIさん、34回生のTさん、そして35回生の私の娘がいます。出発を待っている人もいます。

自分を活かし他者を活かす目
 純一は高校の先生ですが、自分の学校で、青年海外協力隊員募集説明会で見た目を見ることはなかったようです。それでは敬和学園はどうでしょうか。純一が説明会場で、また私が家族連絡会で出会った目は、オープンスクールや入学試験の労作で奉仕をする在校生が、あるいは学校見学ですれ違う際に気軽に挨拶をしながら通り過ぎていく在校生が中学生に見せる目と重なります。そして三年生が卒業礼拝で見せる目そのままです。多くの中学生が、自分もそんな目を持った高校生になりたいと考えます。その目は特別な何かをすることによってではなく、全校礼拝から始まる一日一日の学校生活にしっかり取り組むことから持てるようになるものなのです。他者のために働きたい、他者と共に生きたい、との思いにあふれた目をズバリ一言でいえば「キリストの目」です。弱い立場に生きなければならない人のために、自ら十字架にかかってもいいと覚悟をもったキリストの目です。自分を活かし他者を活かす目です。敬和学園にはそうした目が育っているのです。