自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
小西二巳夫(校長)
月曜朝1時間目に掛かってきた電話
1月21日(月)の1時間目のことでした。その時間は毎週校長室で聖書科の教員4人で教科会と祈祷会を行っています。内線電話が鳴り、事務室から「○○高校の校長A先生からお電話です」との取次がありました。○○高校は中越地方にある学校です。一瞬緊張しました。地域的にあまり付き合いのない学校の校長先生が、月曜日の朝一番に電話をしてこられたのです。何もないはずはありません。新潟県全体の何かの会合の出欠席の返事を出していなかったのだろうか、教員の誰かに関することなのだろうか、それとも子どもたちのことだろうか、ひょっとしたら、敬和の生徒が何か迷惑をかけるようなことをしたのだろうか…」。「おはようございます。小西です」という私に型通りのあいさつをされたA先生が続けて言われました。「実はお宅の生徒さんのことで、お電話を差し上げたのですが…。」、「う~ん、やっぱり、何かあったのか」と悪い状況を思い巡らす私の耳に聞こえてきたのは、想像しなかった言葉です。「感心したことがあって、それでお電話を差し上げた次第です…」。
長岡行き高速バスの車中で
A先生が話されたことを書くとおおよそ次のようなことです。前の週の金曜日、A先生が乗られた新潟から長岡行きのバスの中でのことです。高速バスですので前向き二人掛けシートです。その日、先生が新潟市内での仕事を終えて乗られたバスは混み合っていました。その一つに座っていた男子高校生が自分の抱えていた大きな荷物と自分の体を窓側に寄せながら「どうぞ」と声をかけてきたとのことです。またその高校生は自分が先に降りる際にA先生に「お先に失礼します…」と一声かけたというのです。A先生が感心されわざわざ電話をかけてきて下さったのは、男子高校生が相手の気持ちに立った言葉遣いと気遣いに満ちた体の動かし方をしたからです。A先生はその高校生の気遣いを大切なこととして大いに喜んで下さったようです。「日頃の教育が出ています。見習いたいものです」との言葉もいただきました。頂戴した電話に対して詳しいことをお聞きするのは失礼かと差し控えましたが、どこ行きのバスかを確かめることはできました。
通学生のB君が言いました 「ふつうのことですから」
電話を切った後いくつかのことを考えてみました。金曜日の夕方という時間帯から考えて、長岡方面からの寮生が週末に家に戻るために乗ったバスだろうか、それとも遠距離通学している通学生だろうか。敬和学園の生徒であることがわかったのは、ブレザーを着ていたからだろうか。長岡までの車中でそれなりの会話があって、自分が敬和の生徒と明かしたのだろうか。それに加えて、敬和学園の生徒をほめて下さったことは喜ぶべきことだけれど、ただそういう生徒がいてよかった、人間教育を行っていて間違いなかったと受けとめるだけでは、何かが足りないような気がしました。その生徒が寮生ならすぐにわかるので、寮で確かめてもらいました。すると寮生ではなく通学生のB君(二年生)だとわかりました。数日後、出会ったB君に○○高校の校長先生から、お褒めの電話をいただいたことを話し、いきさつを少し詳しく聴きました。一通り話してくれた後、B君は実に素直な表情で言いました。「ふつうのことですから」。その表情を見ながら、電話の直後に足りないと感じたそれが何かを気づきました。
私に足りないものを思い知らされた
A先生は生徒の態度と言葉に感心したと、月曜の朝一番に電話を下さいました。もし私がそういう場面に遭遇し感心したとして、その高校生の通う学校の校長先生にわざわざ電話を掛けたでしょうか。はなはだ疑問です。A先生はB君の気遣いができることを素直に喜びほめて下さいました。それを電話でわざわざ告げて下さったA先生こそ気遣いのできる人だと気づかされたのです。「あなたの学校の生徒はすばらしいですね」と素直に喜んで下さる、それこそまさに人間教育です。教育に携わる者の持つべき感性とは何かを教えられました。そして、それができていない自分、まだまだ成長が足りないことに気づかされました。成長しなければならないのは自分自身であることを日々自覚しながら、敬和学園の教育に携りなさいと神様が耳元でささやいて下さっているようです。