自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
小西二巳夫(校長)
テレビのグルメ番組
テレビのグルメ番組に俳優やお笑いタレントが、おいしいと評判の店に出かけるというのがあります。食べた直後のリアクションや感想はたいてい決まっています。一口食べた瞬間、一瞬の沈黙があって、次に大きく目を見開いたかと思うと、言葉にならないとばかりの表情で「うまい」とうなります。後は食感や素材についてあれこれ説明をします。いかにおいしいかを最大限に表現しようとしてそうなるわけです。私は以前それにツッコミを入れていました。「食べた瞬間にうまいかどうかわかるわけないやろ、世の中、そんなおいしいもんばっかりやないで、嘘くさいなあ」。その私がしばらく前に気づいたのは、タレントは食べて感じたことを自分の言葉で表現しているのではなく、台詞あるいはきまり文句を口にしているに過ぎないということでした。そこに本当の言葉を期待するから、なんとなく嘘くさく思えるわけです。あくまで仕事として台詞を言っているとしたら、それはそれで納得できるのです。
日常生活に台詞が飛び交う
ところで台詞や決まり文句は舞台やテレビ番組の中だけで使われているものでしょうか。もし、それが私たちの毎日の生活の中で使われているとしたら、例えば友達同士の会話で、台詞や決まり文句が当たり前のように使われていたら、それを笑ってすませるわけにはいきません。というのは新約聖書、ヨハネによる福音書が冒頭で言葉のもつ意味、人間が生きる上でそれがいかに大切なものであるかを語っているからです。1章1節以下に次のように記されています。「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。…万物は言によって成った。成ったもので言によらず成ったものは何一つなかった。言の内には命があった」。ここから言葉が、人が生きる上でいかに大事なものであるか、生きることと言葉が切り離せない関係にあるかがわかります。
台詞による友だち同士の会話
先日東京へ出張した時のことですが、あるJRの駅のコーヒーショップでパソコンを前にあれこれ悩みながら原稿を書いていました。その駅周辺にはいくつもの大学があって、そのどこかの学生であろう数人の大きな話し声が後ろのテーブル席から聞こえてきました。彼らはどうやら老人施設での実習について話しているようでした。ところが、彼らの言葉のやりとりが私には会話ではなく、素人の舞台の台詞のように聞こえてきたのです。どこまでも表面的な言葉のやりとりに終始していました。相手の言葉に反応する際の笑い声やあいづちも決まった台詞を使っているような感じでした。
本気で話す、本気で生きる
友だちや周りの人の言葉によって励まされたり、悩みから抜け出せることがあります。その一言に救われたということもあります。けれどそれはあくまで時々のことです。相手の言葉を聴いて考えて、それを言葉にすることによって、つまり自分の言葉を持つことによって人間は生きたものになるのです。「本音と建前」という言葉の使い方が自明のように言われます。本音を言うと相手を傷つけたり悪く思われたりすることがある。だから本音は出さず当たり障りのない建前で話す。確かに人というのは言わなくてもいい一言を言って関係を悪くしてしまうことがあります。けれど、本音と建前というとらえ方はあくまで一つの分け方であって、大事なのは本音とか建前とかではなく、本気ということではないでしょうか。本気で考えて本気で話す。本気であることがわかると、それが間違いや勘違いであっても、案外相手に通じて納得してもらえるものです。本気で生きる、そうすると、その存在は排除されるのではなく、違いは違いとして受け入れられるのです。敬和学園は聖書に書かれたことを大切に考える学校です。言葉を大切にする学校です。つまり台詞ではなく、本気で考え本気を言葉にする、本気で生きることを大切にする学校です。本気になることによって、自分の言葉が内側から湧きあがってきます。その言葉が自分を生かし、他者との関係をあるべきものにしていきます。新しい年度にぜひ本気で取り組みましょう。