自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
小西二巳夫(校長)
勉強しなくていい学校?
何となく言われることに「敬和学園は勉強しなくてもいい学校」というのがあります。雰囲気が他の高校と違うことや、教育の中心にあるキリスト教の人間観や価値観への誤解や表面的な解釈から、そうした言葉が出てくるのかもしれません。確かにカリキュラムは受験勉強中心に組まれていません。多くの高校が勉強の中心に模擬テストを据えて進学対応をする中で、敬和学園は年5回の定期テスト以外に大きなテストを行いません。それに並行して行事や集会を大事にしています。進路決定を前にした一般的な三年生に求められるのは、普段に増して勉強することです。ですから勉強さえしていれば、たいていのことはゆるされるでしょう。ところがその時期に、敬和学園の三年生は学校全体で取り組むいくつもの行事に中心的な役割を果たすことが求められます。進路を拓くための勉強と行事は別物であり、行事は勉強の妨げになるとさえ言われます。それにもかかわらず、進路を拓くための勉強と行事に主体的にかかわることを求めることが「勉強しなくていい学校」との風評につながるのでしょう。
勉強は高校生の仕事!
そこであらためて敬和学園の現実を思い浮かべると、逆に「敬和学園ほど勉強に熱心な学校はない」ことがわかってきます。さらに思えるのは「敬和学園は、勉強するのが高校生の仕事」と考える学校だということです。「勉強するのが高校生の仕事」あるいは「勉強するのは自分のため」というと、当事者である高校生は「言われなくてもわかっている」とある程度納得するものの、同時に反発したくなるはずです。その理由の一つに、そういう相手が、本気でそう思っていないことがあります。「勉強するのはあなたの仕事、あなたのためよ」というものの、実は親や学校の安心や体裁のためであることが見え隠れするからです。それでも私は「敬和学園は、勉強は高校生の仕事」と本気で考える学校といいたいのです。
勉強の本質 仕事の本質
勉強の本質とは何でしょうか。勉強ができる人とは、習ったことをきちんと覚えていて、テストでいい点数を出せる人でしょう。定期テストの問題は決められた範囲から出題され、それを決められた時間内に、きちんと解答すればするほど高い点数がとれます。そうした営みを一般的に勉強と呼ぶのですが、「決められた範囲や時間の中で求められる結果を出す」ことは勉強というよりは仕事の本質です。ですから、それができる人を「仕事ができる人」と社会では呼ぶのです。勉強が持つ一番の本質とは、勉強をしても一円も儲からないことです。勉強は元々商売に関係する言葉でした。たとえばお店の人がお客さんに「勉強しますよ」というのは、「値引きしますよ。お安くしますよ」の意味です。勉強すればするほどお店は儲からなくなります。私の知り合いに難しい資格試験に合格するために10年以上、毎日10時間以上も勉強した人がいます。もしそれだけの時間に仕事をしていたら、それなりの収入になったはずです。けれど膨大な時間をかけて勉強しても直接お金にはなりません。それが勉強と仕事の本質的な違いです。
密度の濃い三年間
学校はお金にならないことを、勉強するという形でしっかり体験してもらう場所です。高校は三年という決まった時間の中で、勉強を通して、仕事ができる人や社会的貢献ができる人を育てる場所なのです。それを当事者からすると、勉強は高校生の仕事であり、勉強は自分のためだということです。フェスティバルなどの行事に取り組み、成功させるためには、決められた時間の中で、全体の段取りをつけ、先を読みながら、人と人をつなげ、そして、みんなが達成感を持てるようにしなければなりません。毎日の勉強も行事もまさに仕事のできる人、社会的貢献ができる人になるためです。そういう意味で勉強と行事は何も矛盾しないのです。今社会の中で「勉強はできるけれど仕事ができない」という若い人が増えています。考えられる理由として、学校で「勉強することが仕事」という過ごし方をしてこなかったことがあります。そうした時代の中にあって、敬和学園の卒業生に仕事ができる人が多いと評価されるのは、それは「勉強するのが高校生の仕事」という密度の濃い三年間を過ごしたからに他なりません。それでは今日も勉強にしっかり向き合ってもらいましょう。