自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
小西二巳夫(校長)
ラクリマクリスティ
「ラクリマクリスティ(キリストの涙)」というイタリアのワインがあります。命名は次の伝説に由来します。天国から追放されたサタンが天国の土地を一部持ち去り、逃げ出しました。あわてたサタンは途中で盗んだ土地を地上に落としてしまいます。その場所にナポリの町ができるのですが、次第にナポリは乱れていきます。イエス・キリストはその様子をベスビオ火山の山中から見ていたのですが、悲しみのあまり涙を流します。その涙が一滴落ちたところにブドウの樹が生え、すばらしいワインができました。そこでその土地にできるワインをキリストの涙、『ラクリマクリスティ』と命名したというのです。このお話は、おいしいワインができるためには、土地や水が豊かであること、そして天候がブドウ作りに適していること、また熟練された醸造技術が求められることを教えてくれる話になっています。それに加えておいしいと感じるためには「触れる」ことが必要です。ビンの栓が抜かれグラスに注がれた時の空気との触れ合いです。ワインは周りの空気と触れることによって初めて内に持っている味と香りが引き出されるのです。
池澤夏樹「光の指で触れよ」
私が「触れる」から思い出すのが、作家池澤夏樹の「光の指で触れよ」という小説です。この作品は東日本大震災前が起こる前に出版されたのですが、風力などの自然エネルギーによる発電や農業と地域共同体の大切さに触れられていて、今の時代をどのように生きたらいいかを考えさせてくれます。本のタイトルは旧約聖書の創世記1章3節「光あれ。こうして光があった。神は光を見て、良しとされた・・・」からとられたとのことです。それに主人公一家の長男が通っている学校が「あいつは新潟の全寮制の高校に行っています。いい学校らしくて」「男女合わせて200人くらいが寮の子、食事はホールに行って食べる。それから同じ敷地の中にある学校に行く…」などから敬和学園をモデルにしているように思います。「光の指で触れよ」は自らが目に見えない存在や他者ならびに社会と触れなければ、その人の人間的良さや才能も形になって表には出てこず、生きたものにならないことを教えてくれます。「触れる」を別の言葉に置き換えると「出会う」になります。
万城目学「かのこちゃんとマドレーヌ夫人」
私はさらに「触れる」と「出会う」から作家万城目学の「かのこちゃんとマドレーヌ夫人」という物語を思い浮かべます。主人公のかのこちゃんは小さい頃からの親指しゃぶりがやめられません。お父さんは娘には必ず「知恵が啓かれる」ような瞬間が来るから大丈夫というのですが、お母さんは小学校入学を前に心配で仕方がありません。小学校入学を一週間後に控えたある日、かのこちゃんはおしゃぶりで白くふやけた親指をマドレーヌと名づけられたネコの鼻先に持っていきます。驚いたマドレーヌは臭いにのけぞりながら、かのこちゃんの親指に噛みつきました。その瞬間かのこちゃんの頭の中で何かが「ポコン」と音を立てました。それがまさに「知恵が啓かれた」瞬間の合図でした。指しゃぶりはピタッとおさまり、同時に今まで一人静かにぼんやりすることの多かったかのこちゃんですが、親指を噛まれるという〝触れる〟体験を通して、大きな声で「あれは何、これは何」と質問をする、そして言葉に強い関心を持つ子どもへと変わりました。内なる好奇心が一気に外の世界へと噴き出し始めたのです。
触れるものがたくさんある敬和学園 「おはよう」から生み出される
ワインの本当のおいしさは空気と触れることによって引き出されます。見えない存在と触れ、他者や生きている世界と触れることによって、その人が持っている才能や人間的良さが形になって表に出てきます。触れる=出会いによって、その人はその人らしくなります。成長できるのです。逆に触れることがなければ、残念ながらその人に与えられた人間的良さや生きる力も表に出てこないのです。
この文脈から敬和学園を紹介すると「敬和学園は触れる場面が実にたくさんある高校です」になります。一人になってじっくり考える時間の全校礼拝、できる限り小さい単位で展開している毎日の授業、人とぶつかり合うことを恐れずに取り組むことのできる行事、自分の存在を真正面から受けとめてくれる寮生活などの、人として成長するための、そして生きる力を持った存在になるための出会いがたくさん用意されている学校です。そこが他の学校との違いといえます。充実した高校生活を通して生きる力を持った人になるために、ぜひ敬和学園を目指してください。