自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
小西二巳夫(校長)
童謡「叱られて」
私の子ども時代を一言で言い表すなら、「叱られる毎日の連続であった」となるでしょうか。学校では先生に叱られ、家では親に叱られる。本当はそんなことばかりではなかったはずですが、記憶の中にある子どもの私は、いつの間にか他のものがそぎ落とされ「叱られる子」です。「叱られる」で思い出すのが童謡「叱られて」です。一番の歌詞は「叱られて 叱られて あの子は町まで お使いに この子は坊やを ねんねしな 夕べさみしい 村はずれ こんときつねが なきゃせぬか」です。この童謡がタイトルと歌詞から、子どもが親と主人に叱られたのは、何か失敗をして、その罰として一人はお使いに行かされ、もう一人は子守りをさせられることになった。あなたもそうならないように気をつけなさいと歌う悲しい曲と思っていました。違っていたようです。作詞の清水かつらは、幼い時に事情があって実家に戻った母親と会うことができずに大きくなりました。そうした幼少時の自分の気持ちを歌詞にしたのです。叱られてという言葉には、可愛がってほしかった、愛情ある言葉をかけてほしかった、との子どもの切ない心情が込められているのです。「叱られて」から気づかされるのは、叱ることが愛することではなく、愛することがあってこそ、叱ることがゆるされ受け入れられるということです。
叱る教育 ほめる教育
アメリカの子どもは、学校の成績に関係なく、様々なことに強い自信を持っているといわれます。将来成功するかどうかについても、成績とは無関係に多くの子どもたちができると信じています。それを支えるのは、子どもは「ほめて育てるもの」との考え方です。日本の学校と家庭では、ほめるより叱るが優先されます。「十叱って一ほめる」のように子どもは叱って育てるものという考えが当たり前にあります。日本の子どもが自分に自信が持てない、自分の将来像を描きにくい理由がそこにあるようです。叱る教育とほめる教育によって育ち方に違いが出てきます。日本の子どもは小学生から中学生、そして高校生と年齢が上がるにつれて、自分が嫌いになっていくというのです。アメリカの子どもには変化は見られません。子どもが自分を嫌いになる理由はだめな人間だと思うからですが、それは周囲から叱られ続けてきた結果です。自己肯定観を持てない子どもを育てることが教育の目的であるはずがありません。
根拠のない自信を持つ敬和生
進路指導主任の言葉です。「敬和の子どもはへんに自分に自信があります。自分にできるものがあると思っている。自分はやれると思っている。つまり敬和生は根拠のない自信を持っている」。高校生が進路を決めることは一大事ですが、すぐに決まる人と決まらない人が出てきます。ただ同じ決められないにしても、敬和学園と他の学校では違いがあります。この場合たいていは、やりたいことが見つからない、できることがわからない、という消極的な理由がほとんどなのですが、敬和生はやりたいことがあれこれあって、なかなか一つに絞れないという積極的な意味で決められないことが少なくないのです。それこそが根拠のない自信であり、アメリカのほめる教育で育った子どもに重なります。根拠のない自信は自己肯定観を持つ人の自信と言い換えることができます。それが「敬和学園は一人ひとりを大切する」に通じるようです。
根拠のない自信を支えるもの
敬和学園は「一人一人を大切にする学校」とよく言われますが「一人ひとりをないがしろにする学校」などないのです。どの学校も一人ひとりを大切に教育したいと考えています。そこに違いがあるとしたら、多くの学校はいい成績を取らせるために子どもの能力を大切にしていることです。だから当事者である子どもは自分が大切にされていないと思うのです。敬和学園が大切にするのは存在です。さらに決定的な違いがあります。「大切にする」を聖書の言葉にあてはめますと「愛する」です。キリスト教の学校である敬和学園は「愛する」という方法で子どもたち一人ひとりを大切にしているのです。これは他の学校が持てない感覚です。「敬和生になる」とは、何らかの形で愛に触れ、「愛される自分に出会うこと」です。高校の三年間を愛されることをベースに過ごすのかそうでないのか、それは人生に決定的な違いをもたらします。そこで明らかになるのは「根拠のない自信」は、愛されていることを自覚できる者が持つことのできる自信だということです。根拠のない自信の根拠は「愛」なのです。付け加えるなら、根拠のない自信は時を経て論理性を備えた自信へと変わっていくはずです。