月刊敬和新聞

2014年2月号より「おもろい子になったなあ ほな しっかりやんなはれ(2) 」

小西二巳夫(校長)

かぐや姫の物語
 スタジオジブリの「かぐや姫の物語」を観ました。昔話の「竹取物語」を下敷きにした映画です。竹取物語は子どものころから絵本などで読んできたはずですが、この作品はまったく知らない話を観ているようでした。昔話の主人公やヒロインはたいてい「…そして○○さんは△△さんと仲良く幸せに暮らしました」となります。こうした昔話の根底にあるのは、誰かに認められ世間に受け入れられることで、人は幸せになれるという考え方です。かぐや姫も次々に登場する求婚者から美しさをほめられます。ついには帝という最高権力者からもその美しさを称賛され、側に仕えるよう求められます。ところが、かぐや姫はそれでも「幸せに暮しました」とはなりませんでした。「幸せ感」を持つことができなかったのです。かぐや姫を評して人生を欲張りすぎていると言った若い人がいました。持って生まれた容姿を周囲からほめそやされるかぐや姫は、それを持たない自分からすると、何をぜいたくなことを言うと腹立たしい気分にさせられるというのです。それにしてもなぜかぐや姫は幸せ感や自分は今生きているとの実感を持つことができなかったのでしょうか。

私をしっかり見てください
 かぐや姫は次々に登場する求婚者に無理な注文を出し、それを見つけだすことを求めます。けれど本当に見つけてほしかったものは表面的な自分ではなく存在そのものではなかったでしょうか。自分の存在をしっかり見てほしいとの切なる叫びが、無茶な要求という形になったように思えます。そして、いくら周囲から容姿をほめられても、それは永遠のものではありません。移ろうものです。ですから自分自身が「私はこれでいい」と受け入れることができなければ、人間はむなしさから解放されず、満たされず、幸せになれないことを、かぐや姫の物語は語っているように思います。その感情を「自己肯定観」「自尊感情」と呼ぶことが一般的になってきました。自己肯定観を持つか持てないかによって、人生はまったく違ったものになり、周りの景色も変わってきます。

Aさんの自己推薦文
 Aさんがある大学の書道科を受験しました。ここは小さい時から書道に励んできた人たちが多く受験すると聞きます。その人たちが書く自己推薦文はどこか似通っているのかも知れません。その中でAさんのそれは異彩を放っていたようです。ですから面接の先生はAさんにどのような学校生活を過ごしてきたのか興味深く尋ねたそうです。一部を紹介します。「…私が思う書の魅力は三つあります。第一に人に希望を与えることだ。それは私が東日本大震災のボランティア活動に行った時に感じたことだ。…書道は震災により苦しみや悲しみを抱えた人たちをも慰め、希望を与えるものだということを直接見て知ることができた。…第三に、言葉の力を視覚的に伝えられるところも大きな魅力だと思う。言葉は私たち人間にとってなくてはならないものだ。今学校で学んでいる聖書にも、言葉についてこう書かれている。「言(ことば)は命であった。命は光であった」と。つまりこの聖書の箇所は、言葉の大切さを強調している。書道は言葉を大切にし、言葉の持つ力を視覚的に表すことができる。これは書にしかない魅力だ。私はこんな魅力的な書を貴学でもっと深く学び、追求していきたい…」。

魂が解放されるためには
 書の魅力を発想豊かに自分の言葉で語っています。書を深く学びたいとの思いがストレートに伝わってくる自己推薦文です。そして、それは存在を受け入れられる中で過ごし、自己肯定観を持つことができる人だから書ける文章です。「存在が受け入れられ、自己肯定観を持つことができる」をキリスト教的に表現するなら「魂が解放されている」となるでしょうか。私もAさんを面接する側にいたら、ぜひとも学んでほしいとの気持ちにさせられたに違いありません。
  学校(敬和)生活がすべて順調ということはまずありえません。Aさんの場合も、微妙な揺れ動きの連続であり毎日であり三年間であったはずです。Aさんが人間的に成長し魂が解放されるためには、日常の学校生活や進路指導を通して、その言葉にじっくりと耳を傾け、書に対する思いや大学でどのように学びたいかを聴き取り、それを自分の言葉にできるように寄り添いながら歩んだ教職員の存在があったわけです。そのように考えると、教育に携わる側の使命の重さをあらためて実感させられます。だからこそ、その使命の重さに喜びと感謝を持ちながら日々子どもたちと共に歩む敬和学園でありたいと願います。