自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
小西二巳夫(校長)
訃報を受け取る
私の年齢になりますと、お世話になった方や親しくしていただいた方が亡くなったとのお知らせを受けることがよくあります。毎年高校の同窓会の会報が送られてきますが、そこにも教職員の逝去者が載ります。今年も5人の先生の名前がありました。一人はすぐにわかりました。社会科の先生でした。他の3人は私と在籍時が重なっていないのでわかりません。残りのお一人はその高校で22年間働いておられましたから、知っているはずなのですが、U・Sとの名前に心当たりがありません。数日後アッと思いました。「ガバチョか。ドン・ガバチョや」。ガバチョは私たちがU・S先生につけたあだ名です。当時NHKの人形劇に「ひょっこりひょうたん島」があり、登場人物にインチキ外国語を操る政治家ドン・ガバチョがいました。U先生はガバチョそのものでした。
ドン・ガバチョ
ガバチョは英語の先生で個性的な授業をする人でした。週四時間のリーディングは最初の一時間で四時間分進み、残りの3時間は英語の曲の歌詞を翻訳して歌うなどでした。グラマーの授業ではガバチョ考案の「忍者文法帖」が使われました。普通の文法は覚えることが多すぎるから、簡単な文法を考案したということでした。これはやがて本になって出版されたのですが、売れ行きはもう一つだったようです。
私とガバチョの関係は高校の時だけで、卒業後にお会いしたのは一回だけです。それは私がフランスに行く前に、同級生の一人と会うことになった喫茶店に、彼がガバチョを呼んでくれた時です。その時のガバチョの言葉は今でも覚えています。「フランス留学なるほど、それは面白い。語学力がない君が留学できるとは、世の中よくなった証拠です。せいぜい楽しんできたらいいですよ」。ガバチョのことは折に触れ思い出すことがありました。けれどその後40年以上会うことはありませんでした。
友情も燃え尽きることがあっていい
ガバチョに会おうと思えばいつでも会えたはずです。こういうことは今回に限らず、私にしばしば起こります。そういう自分を人間関係が深くない生き方をしていると悩むこともありました。その私の思いと生き方を受け入れてくれる言葉に出会いました。ある作家の短編に次のような言葉がありました。「友情っていうのは、消えることもあると思う。そこにあったという事実は残るけれど、友情が燃え尽きちゃうこともあると思う」。友情という関係は永遠とは限らず終わりがあっていいということです。それはすべての関係にいえることです。燃え尽きるとは、終わってもいいということです。しかも、終わることは悲しいことではなく、さびしいことでもなく、違う形でその人の大切なこととして、内側にしっかり残ることでもあるわけです。むしろ会わないことで、その人を生かす力になることもあるのです。ガバチョとの出会いと一時の関係は私にとって、まさにそういうことであったのです。
一回の出会いが生きる力に
新約聖書にはパウロという人が出てきます。彼はイエス・キリストを信じる人たちを捕え罰することに人生をかけていました。そのパウロがある日、考えもしない形でイエス・キリストに出会います。それを境に今度はイエス・キリストこそ救い主との立場に立って活動をし始めます。そこで考えたいのは、パウロがイエス・キリストに出会ったのは偶然だったかどうかです。パウロは暴力的な活動を繰り返す自らの生き方に疑問も持つことも時にはあったはずです。つまり彼は自分を見つめ直すチャンスを探していたのです。自分を変えてくれる存在との出会いを願っていたのです。その願いが、雷に打たれて一時的に目が見えなくなるというイエス様との劇的な出会いになったのだと思います。しかもパウロがイエス・キリストに出会い言葉を交わしたのはその一回限りです。ただ一度の、そして一時だけの出会いや関係が、人生に大きな意味を持ち、生きる希望になることが聖書に記されているのです。キリスト教の学校である敬和学園の使命の一つが、自らが真剣に考え苦しみ悩むことに、心から願うことに対する働きかけや答えが、出会いを通してそれぞれに与えられることを、子どもたちにしっかり伝えることです。さらに、必要な出会いや答えは後からだけでなく、自分が悩んだり考えたりする前に、すでに与えられているのを伝えることです。それらを伝えることによって、希望を持った生き方をできる人たちを育てていきたいと、心から願います。