毎日の礼拝

校長のお話

2015/03/19

「ゆるしに応えた敬和生活を」(ルカによる福音書22章54~62節)

2014年度も今日が最後の日となりました。

3月は終わりと始まりの時です。

たとえば、プロ野球はもうすぐキャンプ、オープン戦が終わって、新しいシーズンが始まります。

私の毎年の楽しみです。

ただ敬和学園で働くようになって、それまでとは違う角度から野球を見たり考えたりするようになりました。

敬和学園の教育とは何かを野球は様々な形で気づかせてくれることが多いのです。

気づいたことの1つに、野球で使われる用語や表現があります。

野球で使われる用語や表現は物騒で平和的でないものがあります。

野球用語は野球が誕生したアメリカの言葉を日本語に翻訳したものが多くあります。

それもずいぶん昔のことです。

だから時代的背景もあって戦争や争いに関係する言葉が多いわけです。

スティールという相手のすきをついてランナーが次の塁に進むプレーを「盗塁」と訳しています。

ベースを「塁」と訳しましたが、塁は石や土で作った小さな砦のことです。

それを盗むわけです。

当然相手もそれを防ごうとします。

うまく防げた時には「刺殺」と記録されます。

逆にランナーがセーフなった場合は「塁を陥れました」となります。

バッターが打ったボールが外野に飛びます。

そのボールを外野手が直接グラブで捕ります。

それを見たランナーが次のベースに向かって走ります。

外野手はそれを防ごうと、次のベースで構えている内野手にボールを投げます。

そして走ってきたランナーにタッチをしてアウトにします。

記録は「捕殺」となります。

その他にも相手チームのサインを見破ることを、サインを盗むと表現します。

 

 

もしこれが野球でなかったら、日常生活の中でそういう表現を使ったら、相手を傷つけることになります。

学校なら間違いなく生活指導を受けることになります。

野球と言うスポーツだから「ゆるされている」のです。

野球には、神様とは何か、キリスト教とは何かを考えさせられる用語も使われます。

ボールとの判定を4つ取られたら、フォアボールとなって、バッターは1塁に出ることができます。

フォアボールの一つに「敬遠」があります。

これはこのバッターに打たれたくない、打たれたら点が入って負けるという場合に、打たせないために、わざとボール球を4つ投げることです。

敬遠のもともとの意味は、神様や鬼は怖い存在だから、なるべく近づかないようにしよう、できるだけ遠くから見るようにしよう、という宗教的な用語です。

そこからそのバッターを遠ざけて打たせないようにする、ということを敬遠と呼ぶようになりました。

キリスト教の神様は救いを求める人と共に歩んで下さる、悲しんでいる人の傍におられる、というものですから逆の考え方です。

犠牲バントというのもあります。

これは塁に出ているランナーを次の塁に進めるために、バッターがバットを振るのではなく、自分がアウトになることを前提に、バットにボールに当てて、内野手の前や間に転がすことです。

自分を犠牲にすることが求められる、それがキリスト教のように考えられがちですが、キリスト教は自己犠牲を求める宗教ではありません。

自分以外の誰かを優先させるのは、それが自分を一番大切にし、生かすことになるからです。

 

 

野球はキリスト教、敬和学園の教育を真正面から考えさせてくれることもあります。

球場には外野の後ろにスコアボードがあります。

そこには2つのチームの名前と、ゲームに出ている選手の名前などが示されます。

そして1回から9回までの得点も記入されていきます。

その得点表の右側にHとEのランプがあります。

Hはヒットで、Eはエラーです。

バッターが打った当たりがヒットなのか、守っている選手の失策エラーだったのか、公式記録員が判断をして、そこに示すためのものです。

スポーツのプレーには必ず失敗があります。

そこで失敗しないようにプレーをするわけです。

けれど、スコアボードにEのランプがあるということは、エラー・失敗を前提にしていることでもあるのです。

そのことを気づかせてくれたのが桑田真澄さんです。

桑田さんは高校野球とプロ野球で活躍して、引退後大学院で勉強しました。

野球を心から愛し研究熱心な人です。

桑田さんは自分の本の中で次のように言っています。

「守備について言うと、エラーは絶対だめだと教えられます。ミスしたら負けるぞと言われます。でも、エラーしてもいいんです。エラーを容認するのが野球です。それが証拠にどんな野球場のスコアボードにも[E]という表示があるじゃないですか。エラーは必ずする。大事なのはどうしたらエラーを少なくすることができるのかを、自分で考えることです」。

 

 

みなさんのこの1年はどのようなものだったでしょうか。

すべてうまくいった、すべて良かった、と自信を持って言える人、いるでしょうか。

それとも、自分はたくさんの失敗・エラーをしたと考えているでしょうか。

もし、すべてうまくいったと、思えるとしたら、それは大いなる勘違いです。

そういう人はほとんどいないと思います。

この1年を振り返る時にたいていの人は、自らの失敗が思い出されるはずです。

私がそうです。

あの時そうしなければよかった、ああしておけばよかった、そうしたら、こんな結果にはならなかった。

その失敗に今も気持ちや生活が、後悔でいっぱいの人さえいるかもしれません。

その失敗も二つに分けることができます。

一つはやってしまった、やってはいけないことをしてしまった、です。

これはすぐに気が付きますが、もう一つ気が付きにくい失敗があります。

それはするべきことをしなかった、というものです。

敬和学園に学ぶものとして、するべきことをしなかった。

人として考えるべきことを考えなかった。

取り組むべきことに取り組まなかった。

そしてこっちの方が、よりゆるされないとキリスト教は考えます。

先ほど読んでもらった聖書に登場するのは、イエス様の弟子のペトロです。

この場面の少し前のことですが、イエス様の言葉を遮るように、ペトロは言いました。もしあなたがユダヤの権力者たちに捕まりそうになったら、私が必ず守って見せます。私はどこまでもあなたについていきます、と実にかっこよく見えを切ったのです。

ところがイエス様はそれを喜ばず、そういう場面になったら、ニワトリがなく前にお前は3度私を知らないと言うだろう、逃げるだろうと言われました。

そして、それはイエス様の言葉どおりになりました。

ペトロは恥ずかしげもなくイエスなど知らない、私には関係ないと言ったのです。

ペトロはまさにするべきことをしなかったのです。

鶏の鳴き声を聞きながら、イエス様の言葉を思い出し、自分は絶対にゆるされないだろうと思ったのです。

ところがユダヤの権力者たちに連れて行かれる際に、自分を見るために振り返ったイエス様の目は恨みや蔑みにあふれたものではなく、ゆるしの目であったのです。

その目に出会って、ペトロは自分の取り返しのつかない失敗が、なおゆるされていると知り、大声で泣かずにはいられなくなりました。

泣きながら、これから自分がどのように生きたらいいかを考えたのです。

この出来事以降のペトロの生き方は、死ぬまで「主なる神を愛し、そして隣人を自分のように愛する」に徹するものとなりました。

 

 

イエス・キリストの言葉を中心に教育を行う敬和学園で学校生活を過ごすということは、自分がゆるされていることを自覚することです。

失敗をゆるされて今を生きている、そのことをしっかり自覚することです。

そしてそのゆるしに応えた生き方をすることです。

ゆるしに甘えるのではありません。

ゆるしに応えた生き方を具体的に考えることです。

そうしたことを考えるのが、1年を終え、新しい1年を迎えるまさに今です。

この春休みです。

この春休みをそうしたことを考えないまま過ごすことは、まさにイエス様を裏切ることです。

それでは4月7日の始業礼拝で、新しい年度を始めるにふさわしい雰囲気に溢れたみなさんと、お会いしたいと心から願います。