のぞみ寮通信

大望館

2015/02/28

大望館通信 第232号(2月26日)

<2015年度へ>

 3年生もいなくなりました。部屋替えもしました。大望館にはもう3年生の居場所はありません。彼らが帰って来ても、泊まる場所はホールに雑魚寝です。この時期になると、いつも感じることです。2年生が急に頼もしく見えます。一人一人を見てもそうですが、何よりも集団として見た時に、一体感を感じてなりません。今年は特に人数が少ないせいか、その事を強く感じます。食事も同じテーブルで、食べる事ができる人数です。何気ないやり取りや表情、新しくその輪に加わったY君もまるでずっと一緒に過ごしてきたかのような馴染み方で、みんなが一つになっています。振り返れば、本当にいろんなことがありました。あの色んなことがあったその最中には全く感じることが出来なかった雰囲気を今感じています。この時のために、色んなことはあったんだ。そう考えることもできるでしょう。 (澤野)

 

 

<礼拝のお話>

Y.Y  (1年 長野県長野市)  

 今回は各学年の節目の時期が近づいているということで、一年生である自分の視点から“進級すること”について色々と考えてみました。

 45回生は卒業していき、46回生は3学年に、47回生は2学年になり、そして新しい敬和生が入学してくる・・・。そんな当たり前のような仕組みですが、ただ進級するのではなく、自分の中で心がけておいたほうが良い事があると思います。最近よく「新しく入ってくる後輩」のことが話題になっていると感じます。僕たち47回生も先輩になる日がやってくるので、少しずつ意識し始めているからだと思います。そこで思い浮かぶのが、“理想的な先輩になりたい”という願望です。ただ単にカッコイイ先輩になろうとかを先に考えるのではなくて、「後輩の皆からどういう目で見られるのか」ということを優先して考えてのことです。では、僕が何故そういうことを真っ先に考えるのか。それは、やはり自分も先輩の姿を見ながら生活してきたからです。先輩たちのカッコイイ姿、見習うべきところ、またはその逆のことであったり、日常のありふれた時間のなかで多くの場面を見て、学びながら寮生活や学校生活を送って来ました。だからこそ、自分自身が先輩になったときに、学んできたことを活かしていきたいと思うのです。後輩からどんな目で見られるかは、自分の行いに懸かっているので、そのことを心に留めて新しいスタートをきりたいです。

 

 

H.T  (2年 兵庫県川西市) 

 皆さんは『一寸先は闇』ということわざを知っていますか?簡単に言うと人生何が起こるかわからないって意味です。僕の父は牧師をしていてその師匠?みたいな人に春名牧師という方がいます。以前に新潟教会で牧師をしていたこともあるみたいです。その人が書いた本に『人生、一歩先は光』というマンガがあります。家にあるんですが読んだことはなく、この前図書館で見つけたので読んでみました。僕は内容よりも『一歩先は光』という言葉が気に入りました。不運な事が起こったり嫌な事が続いて落ち込むことってあると思います。でもいつかは良い事あるよってこと。闇というトンネルにも、必ず出口、光が待ってるってわけです。本当にその通りだと思います。この言葉をみなさんに知ってもらいたいと思いました。

 話は少し変わります。この前父と電話をしたとき、身近な人にも今本当につらい思いをしている人がいることを聞かされたことがありました。また、他にも悩みを抱えている人はたくさんいます。僕はこういう人達にこそさっき言った『一歩先は光』っていう言葉を知ってもらいたいです。でもそういう人たちにとってこの言葉はウソにしか聞こえないかもしれません。生きてたらいつか良いことあるよ。なんてのも無責任だし、気休めにもなんないと思います。でもやっぱり生きてたら絶対良い事あるし、聖書に書いてあるように喜び楽しんで一生送った方がいいし。なにより自分のことを大切に思ってくれてる人は必ずいると思っています。そんなことで助かるんやったら苦労してないと思いますが。

 地理の授業の時にもし世界が100人の村だったらっていうドキュメンタリー番組を見ました。そこにロシアのストリートチルドレンの話がありました。家庭の事情、親がアルコール依存症で暴力を振るうから家に帰れないとか、家を追い出されたとか。正直どう反応していいのか分かりませんでした。普段そういう状況からかけ離れた生活をしているからだと思います。普段僕が当たり前の様にできてることができない人達がいる。たぶん僕たちの当たり前の基準が高すぎるんだと思います。他にも世の中には僕なんかより苦しみ、辛い境遇に置かれてる人はたくさんいます。日本みたいに豊かな国の方が少ないらしいです。

 なんか壮大な話になってしまいましたが、身近な事で出来ることはあります。それは献金することです。教会での献金がどこに行くか分かんないけど、だれかのために使われることは間違いないです。敬和の木曜の礼拝の時の献金はちゃんと何処に捧げるかがわかるし、今後は積極的に協力したいと思います。これはみんなにも出来ることです。他にもホームレスの人達への炊き出しもやりたいと思っています。兵庫県の尼崎とか三宮の公園でやってるんですが、一度も参加できてないので来年こそはやろうと思います。新潟でもあるらしいので今度調べてみようと思います。

 結局何が言いたいかというと、みんな恵まれてると言う事です。だから弱い立場というか、恵まれてない人達になにかしなくちゃいけないってことです。その人たちの気持ちとか苦しみとか分からないのに、可哀想だから同情して何かをしてあげるっていうのも色々思うことがありますが、何もしないよりはマシだと思います。自分のために生きるんじゃなくて、誰かのために生きるってこともアリだと思います。

 僕が将来誰かのために働くのかわかんないですが、自分は恵まれてると言う事、そんな中、苦しんでる人、助けを求めてる人がいるということ、その人たちのために出来る事があると言う事を忘れずに生きていきたいです。

 

 

<今週の写真>