自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2015/02/25
< 光風館クリスマス景品 イタリアンフルコース! >
1月24日(土)昼、光風館クリスマス景品で“片岡自由賞”と“あの紙きれ”をゲットした二人へイタリアンフルコースを振る舞いました。
景品を選んだ理由を尋ねたところ、「絶対にハズレじゃないから、必ず寮務教師の特別賞を選ぶんです!」と主張するT.Y君(3年)。ゲームセンターのクレーンゲームが得意な彼は、「景品を取った快感が好きなんです。でも取った景品を自分はあまり使わないから、光風館のみんなへ…」という理由で毎年、光風館クリスマスの景品を提供してくれているのです。太っ腹過ぎますよ、Tさん!
“あの紙きれ”を選んだ理由を聞くと「う〜〜ん、…………なんとなくです。」と答えたC.T君(1年)。「いやいや考える時間長いし、答えがテキトーだし!」とツッコミを入れる私。この二人の温度差が何とも言えないほど笑いのツボを突いてきて、楽しい美味しい時間を過ごしました。
“イタリアンフルコース”の写真を掲載します。この賞を取れなかった光風生はどうぞ羨ましがってください。さぁ、来年は誰がこの賞を取るのか楽しみです。(片岡)




< 誕生日おめでとう! & ナウ委員会・ポストマンお疲れ様会! >
1月29日(木)2〜3月誕生会を開催しました。おめでとう!
今回は特別に光風館独自の委員会である“ナウ委員会・ポストマン”のお疲れ様会も合同で行いました。のぞみ寮の各委員会は担当教師と一緒にお疲れ様会を企画しています。食事に行った話を各委員の光風生から聴いて、うらやましがるナウ委員会・ポストマンの光風生。与えられた仕事をひとり一人が精一杯やり遂げたことには変わりないので、1年間頑張ってくれた感謝の想いを込めて、開催することにしました。みんなで楽しめる料理ということで「たこ焼き」、いつもよりワンランク上のパスタが食べたいということで「リングイーネの明太子クリーム」を作りました。たこ焼きをいつものように慣れた手つきで焼いている中、鍋の蓋を開けたらパスタの美味しそうな香りと華やかな見た目に歓声が上がりました。「めちゃ美味い!これが食べたかった〜!」と味わう姿を見て、嬉しさを感じました。「美味しい」と言いながら、ガツガツ食べている姿は料理する人にとって、何よりも嬉しい光景です。これほど直接的に反応を見ると、「また美味しい物を作ろう」と気合いが入ります。そして今回、もうひとつの感情を抱きました。それは「光風生としての45回生が美味しそうに食べるこの光景はもうなくなるんだなぁ」という寂しさです。『またいくらでも作ってくれたら、寂しさは感じないでしょ?だからたくさん作ってください』とI.T君(3年)が言ってきましたが…。

2〜3月誕生者からのリクエストは「鶏の唐揚げ」でした。自宅学習期間に入る最終週にインフルエンザになってしまったO.N君(3年)からのリクエストでした。インフルエンザが広がらないように光風館の別室で5日間生活することになりました。高熱に苦しみ、数日が過ぎ体調が回復して登校許可をもらうために通院しました。無事に登校許可をもらった帰り道、『お腹が空いた…』ということですき家へ行きたいとのこと。時計を見てみると10時30分、「さっき朝食を食べたばっかりでしょ!?」と言いながら、「あと1時間くらいでランチだけど…食べるの?」と聞くと、一瞬沈黙した後『はい、食べます!』と彼は答えます。続けて「今晩、誕生会だけど大丈夫か?」と聞いたところ、『もちろん、食べます!』と満面の笑みで答える彼。「そうだった、こいつは“伝説の漢”だった…」と納得していると、驚愕の事実に気付きました。その日、彼の食事は“朝食・すき家・昼食・夕食・誕生会”ということ。つまりインフルエンザから回復した直後、1日5食を食べていたのです。彼に“病み上がり”という言葉はない。さすが“伝説の漢”です。
もう一人、伝説を創りかけた漢がいました。T.R君(3年)です。その誕生会とお疲れ様会の後、I.H君(3年)とT君、私で談笑している最中に「実は俺、3月生まれなんですけど…さっき食べていないんです」と打ち明けてきました。「えっ!?ホントだ!なんで遅れてでも入ってこなかった!?」と聞いたところ…気付いたら始まっていて遅れて談話室に入ろうとしたけど、その空間が盛り上がり過ぎて入ることが出来ずに帰ってしまったそうです。あまりにもかわいそうなので、特別に「タコのカルパッチョ」を作ってあげました。最後なんだから、いつもの陽気なキャラで参加してきたらよかったのに…と思いながら、それもまた彼らしいなと感じたのでした。(片岡)
< 誰かを応援する気持ち >
2月になり1年生のスキー教室中、2年生は鍋パーティとセクシュアリティ講座が行われました。また入試日程の関係で5連休となり、光風生のみんなはどんな日々を送りましたか?冬休み以来、帰省してゆっくり過ごした光風生も多かったです。その中、インフルエンザが大流行してしまい、たくさんの光風生が高熱に苦しめられましたね。実家で療養する光風生や実家が県外のため別室で生活することになった光風生。その様子を聴くと、それ以上体調が悪化しないことを心配し、祈りました。その後、回復し元気に寮へ戻ってくる姿を見ると安心し、嬉しい気持ちになりました。
3年生が自宅学習期間に入り、光風館はいつもより静かになっています。2月初めに「3年生がいなくなって、めっちゃ寂しい…」との声を聴きましたが、だいぶ慣れてきたでしょうか?私も静かになった光風館で生活し、点呼時にスカスカになった3年生部屋を見て、寂しい想いを持っていました。でも、その気持ちは少しずつ変化しています。私は今、3年生を気持ち良く送り出し、これからそれぞれの場で活躍することを願っています。ひとり一人が3年間の敬和生活で培った才能を生かし、次のステージでの活躍を期待し、応援する気持ちへと変化しているのです。
そしてこの2〜3月は1・2年生にとっても大切な時期です。それは新しい光風館を築くための準備期間だからです。あと1ヶ月もすれば48回生である新入寮生を迎え、ひとつずつ学年が上がり、後輩が増えます。新入寮生を迎えるに当たり大切なことは、そのひとり一人を応援する気持ちを持って接することです。ちょうど1・2年前、あなたはどんな気持ちで入寮してきましたか?寮生活することを楽しみにしていたと思いますが…多くの光風生は、“不安・心配・緊張”という気持ちを持っていたのではないでしょうか?その自分自身が感じた想いや経験を振り返ると、先輩からどういうふうに声を掛けられたら嬉しかったか、思い出せるはずです。その声を掛けられて嬉しかったことを思い出して、新入寮生を励まし、応援するように接してください。
光風生ひとり一人が今、しっかり考えたり悩んだりすることはとても大切なことであり、成長することに必要です。そして、誰かを応援する気持ちを持つことでより良い人間関係が築けていけると考えています。君たちが素晴らしい先輩へと成長することを信じています!(片岡)
< 礼拝のお話 >
山﨑 飛鳥(寮務教師) ※2月22日のぞみ寮全体礼拝のお話
私にはたくさんの苦手なものがあります。その1つに水道の蛇口で水を飲むこともあります。小学生の頃は学校で水を飲む際は水道の蛇口に口をつけて飲んでいました。周りの友達からは馬鹿にされました。また「3階の図書館前の水飲み場、一番左の蛇口で水を飲むとデブになる」という噂までできる始末でした。私は高校生なり久々にその母校へ尋ね、思い出に浸っている最中の出来事でした。廊下でみかけた小学生が「お前、あの水飲んだらデブになんだぜ」と叫んでいました。当時、私が苦しめられていた噂が語り継がれていたことに驚いたと共に少し誇らしい自分がいました。
みなさんの年代の頃は数学が苦手でした。いずれもうまくできなかったから苦手だったのです。もちろんできるようになるためにそれなりの努力はしたつもりです。特に数学は落第するわけにはいかなかったので高校時代は必死になって頑張りました。でも大人になってからは、人前で蛇口の水を飲むこともないし、数学の問題を解かなくてもいいようになりました。すごく助かっています。 その代わり今度は、考えてもわからないので苦手だと感じるものがあるようになりました。私には自分でどう考えてみてもわからないことがあるのです。そのことについて考えていないわけではないのです。何度も考えてはいるのですが、未だにその答えが見つからないでいます。
私が考えてみてもわからないので苦手だとしているうちの一つが「自分はなぜ先生になったのか」という問いです。「どうして自分は先生になったのか」という問いを先生になって考えるようになりました。最近もまたそのことに触れる機会があって、この質問は苦手だなぁと改めて意識させられた次第です。正直自分自身でもわからないのです。もちろん「どうして先生になったの?」という質問は何度も様々な人々から投げかけられてきました。それに対して私は「かくかくしかじかなわけで…」と説明もしてきたように思います。しかし、言葉を尽くして説明しようとする度に「何か違う」という気持ちになってしまっていたのです。ですから、このところは「教えられないな」や「説明できません」や「わからない」と言ってしまっているのです。
人生において何か劇的な出来事が起こったからや、世を儚んで教師しか道がないと思ったからなどそういうことではないことだけは確かです。気付いたら先生になっていたし、それはそれで私に合っていたということなのだろうと考えています。そして、先生になったからといって、なる以前と比べて飛躍的に凄い力が出たわけでもないし、相変わらずバカな間違いを繰り返しながら生きていることを自分自身でも知っています。それに数学もできないままです。おそらくこれから先も他人にはできないような凄いことが出来るわけでもなく、ただ自分の場所にいてわたしに出来ることをやっていくだろうと考えているのです。そんな私なのですが、先生になってここに来て良かったと思うことがあります。というのは、何かを信じるということが難しいこの時代にあって信じられるものが数多くあるということです。そして、そのことについて語り伝えることが自分の仕事であって生きる道になっているということなのです。今の時代、何かを信じることはとても難しいことのように思います。様々な関係において、信じていたのに裏切られてしまうこと、信じてもらっていたのに裏切ってしまうことが起きます。「こんなはずではなかった」という失望を誰もが経験しているはずです。そんな中、自分自身でさえも自分で信じられなくなることもあるわけです。あるいは、自分に自信が持てず、不安や苛立ちを感じてしまうこともあるわけです。「どうせ自分なんて」と考え、あるいはそれすらも感じることなく生きてしまうこともあるわけです。そのために自分のことを許せなかったり、肯定できなかったり、愛せなかったりしてしまうのだろうと思います。
けれども、聖書が伝えるメッセージとはそんな私たちのことをゆるし、肯定し愛そうとする神の姿だと思います。信じられるものがなかなか見出せない時代の中にあって、「わたしを信じなさい」と語りかける神の姿です。神を知り信じたからといって、人生において劇的な出来事が起こるわけでもなければ、飛躍的に凄い力が生まれるわけでもない。それでも、一つだけでも信じられるものがあり、その信じられるものは自分のことを認めていてくれているとするならば、それはそれで凄いことだと思うのです。「なぜ先生になったのか」という問いの答えを見つけられず、その問いに対して苦手意識しか感じない私も、信じられるものの働きかけに、自分のことを認めてくれるものの問いかけに自分なりに応えたいと考えているのです。
今日読みました聖書箇所は、わたしのとても好きな箇所です。わたしにとっての信じられるものとは、わたしに対していつもこのように語りかけていて下さる存在なのです。その存在の働きを感じているからこそ、わたしはこの仕事をやり続けているのではないかと思うし、これからも続けていこうと思うのです。