自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2015/02/03
確か中学2年生の時だったと思います。
京都の美術館で当時話題になっていたツタンカーメンのミイラ展が開催されていたので、一人に見に行きました。
帰りのことです。
国鉄、今のJRの大阪駅で私鉄に乗り換えるために降りました。
改札口でキップを出そうとしたらありません。
しまったと思いました。ドキドキしながら駅員さんにその旨を伝えることにしました。
私の説明が終わらないうちに駅員さんが言ったのです。
「ホンマか。タダ乗りしたんと違うか。ええ加減なことを言うたらあかんで」。
予想もしない言葉が返ってきて、私はうろたえました。
駅事務所に連れていかれました。
矢継ぎ早に質問されました。
どこから乗ったのか。学校はどこか。
まるで訊問されているようでした。
私は親から「家では3流、外では1流」というようなしつけをされていました。
家の中ではいろいろわがままな態度や汚い言葉遣いをしてもいい、ただ外に出たときは品性を持った態度や言葉遣いにしなさい、ということです。
そういう私でしたから、親以外に、学校の先生にたまに叱られることはあっても、見ず知らずの他人から人格を傷つけるような叱られ方はされたことがありませんでした。それが突然犯罪者扱いをされたのです。
事の顛末は成り行きを見ていたベテランの駅員さんの「この子、しゃべり方もちゃんとしとるし、制服もきちんと着ているから、悪い子やないやろ。もうゆるしてやったら」の一言によって終わりました。
駅の事務所で過ごしたのは20分くらいだったと思いますが長く感じました。
このことで、キップをなくす、という不注意によって、悪いことをした人間として扱われることもあると知ることになりました。
そして頭ごなしに決めつけることが、いかに人格を傷つけることになるか、そういう人間に自分はなったらダメだと心に刻む体験となりました。
キップをなくすと今はどうなのかといいますと、駅の精算所に行って、キップをなくした事を言うと、精算券というのを売ってくれ、それで外に出ることができます。
私がキップをなくすという思い出したくない出来事を思い出すことになったのは、タイトルもズバリ「キップをなくして」という小説に出会ったからです。
小説「キップをなくして」は私の好きな作家の池澤夏樹さんの作品です。
そこでタイトルに引っ掛かりを覚えたのですが、ついつい読んでしまいました。
物語は1987年の5月、場所は東京です。
主人公の少年、小学校6年生のイタルは切手集めが趣味で、楽しみにしていた切手が売りに出されたので、国鉄に乗って有楽町という駅までやってきました。
改札を出ようとしてキップがないことに気づきます。
いくら探しても見つかりません。
すると中学生らしい女の人が声をかけてきました。
彼女は言いました。「キップをなくしたら駅から出られない。キミはこれから私たちと一緒に暮らすのよ。ずっと」。
イタル以外にもキップをなくした子どもたちが何人かいて、彼らは「駅の子」とか「ステーションキッズ」と呼ばれていました。
小説「キップをなくして」は駅の子となったイタルが5月から7月までの2か月間に体験したことが書かれています。
駅の子の生活は、駅の外には出ることができませんから不自由です。
けれど他では味わうことのできないある種の快適さと開放感があります。
東京駅は日本で一番大きな駅ですから、いろいろなものがあります。
様々な人がいます。
それらとの出会いは新鮮で毎日がとても面白いのです。
駅からは出られませんが、別の駅には、そして線路がつながっているところならどこにでも自由に行けます。
食事は駅の構内ならどの店で食べてもかまいません。
お菓子が欲しければキオスクでもらえます。
着たい服も落し物の中から自由に探すことができます。
学習もみんなできちんとします。
わからないところは学年の上の人が教えてくれます。
こうした生活をする駅の子ですが、彼らには大きな使命があります。
それは朝や夕方のラッシュ時に、電車に乗れなかったり、降りられずに困っている、時には危ない目に合っている子どもたちを助けるという仕事です。
低学年の男の子がホームに落ちそうになった時には、助けるために時間を止めるという力も与えられています。
イタルは駅の子として過ごす2か月間によって、どのように生きたらいいのか、大切にすべきことは何かを、自ら考えるようになります。
イタルは答えのないことを考えることの大切さを知ります。
さらに、すぐに答えが出ないこと、正解がないことを自分で考えることが、生きる上でいかに大切かを、仲間との出会いや駅の子を大切に受け入れてくれる駅員さんやキオスクのおばさんたちの存在を通して、実感することになりました。
物語が進んでいく中で明らかになることがいくつもあります。
キップをなくした子どもがみんな駅の子になるのではありません。
選ばれた子どもだけが駅の子として生活できるのです。
それを選ぶのは、その姿を見せない駅長さんです。
ある日イタルは駅長さんと思わぬ形で出会いました。
駅長さんとの出会いから、イタルは自分たちが駅の中で暮らしている理由と、自分たちの存在がどのように役に立っているのかを知ります。
そして夏休みの終わりに駅の子としての生活が終わること、つまり自分の家に帰ることができることを知ります。
そうしたものが見えるようになると、人間は自然と元気になることができるのです
「駅の子」の生活と敬和生の学校生活は大いに重なります。
敬和学園は答えがすぐに出ない課題や問題を真剣に考えてもらうことを大切にします。
それは、正解かどうかの答え合わせをすぐにするような生き方が、人生をつまらないものになると考えているからです。
答えがすぐに出ないことを考えることが、他者を支え社会を作る力になるからです。
本当の意味で役に立つ人になってもらうためです。
みなさんがいわば「敬和の子」になったのは、何かを失くしたからかもしれません。しかし、そういう人は同年代にいくらでもいます。
みなさんが駅の子、つまり敬和の子になったのは、神様が選んでくださったからです。
長くいつまで続くのかと思えた敬和生活も、3年生になれば、終わりが見えてきます。
だから3年生はしんどさを抱えながらもこの1年を元気に過ごすことができたのです。
45回生は新しい生活が始まりますが、その中で失うものも少なくないはずです。
だからと言って失望する必要はありません。
今日の聖書にも「一粒の麦は、地に落ちで死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」とあります。
みなさんは敬和生活の中で、見えないものを見るセンスを養い、失うことが大切なものを得るためのプロセスであることを自ら体験してきました。
その感覚とセンスがこれからの人生を支える力になります。