自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2015/01/13
12年近く前から私の家を中心に生活しているネコがいます。
呼び名は織姫で、36回生の寮生がつけてくれました。
織姫の日常は、朝早く玄関先にやってきて私か妻がドアーを開けるのを待っています。開けると同時に入ってきて、入れ物に入っているキャットフードを食べます。
一段落すると、上に上がってきて、フリースでできたサークルの中に入ります。
これは一昨年の12月末に、古町商店街の露店で3個1000円というウソみたいに安い値段で買ったものです。
織姫はつい半年前までは家の中にしばらくいて、すぐに出ていっていましたが、最近は歳をとったせいで日中のほとんどを、そこで寝て過ごします。
ただうっかり部屋の戸をあけていると、いつの間にかスッと入っていて、隅のほうでごそごそしています。
そして外に出ていきたい時は、それが夜であろうが明け方であろうが鳴いて、出してほしいと訴えてきます。
それがギャーギャーとうるさい声なら怒鳴りつけるのですが、何とも言えないか細い声で鳴きます。
ですから私か妻は、ほとんどの場合妻なのですが、情にほだされるように、「織姫勘弁してよ」と眠気に耐えながら布団から這い出て、やっとの思いで玄関のドアーを開けて出してやります。
日々この繰り返しです。
ほとんど家ネコのような気もするのですが、そうとは言えないのは、何よりまず織姫自身が自分は飼いネコとの自覚を持っていないと思うからです。
12年以上の付き合いの中で完全なネコ嫌いであった私はすっかり変えられてしまいました。
しばらく前のことです。
食事をしていた時、サークルに入って寝ている織姫を見るように妻が私に言いました。サークルの縁から両方の耳だけが上に出て、三角形に見えていました。
さらに妻は椅子の上に置いてある額の絵を指さして言いました。「同じよ」。
その額の絵は成瀬正博という画家イラストレーター作品です。
成瀬さんは週刊新潮という雑誌の表紙を書いている人で、その絵も表紙の絵で、数年前に長野の安曇野にある成瀬さんの個人美術館に行った時に、どうしても欲しくなって衝動買いをしたものです。
その絵は表紙のお決まりの登場人物である赤い帽子を被り、赤い服を着た少年らしき人物の後ろ姿とこちらを向いた小さなネコが描かれています。
赤い服の人物はボートに乗っています。
そして風が吹いて波が立っている湖か海をこちら向かって漕いでいます。
ボートを漕ぐ場合ふつうは安定をとるために座りますが、赤い服の人物は立ったままオール動かそうとしています。
その傍らにいるネコは見えているのはボートの縁から出ている三角形の耳だけです。そのネコを見て妻は「同じよ」と言ったのです。
その絵を私が気に入ったのは、ボートの背景として描かれているものにハッとするものがあったからです。
描かれているのは、幅の広い白い筋が縦と横に交差したものです。
私にはそれが十字架に見えるのです。
赤い服の人物は目の前の十字架を見上げながら後ろ向きに漕いで、どこか目的地に向かっているように見えるのです。
そして、私たちがどのような生き方をすればよいのかを、教えてくれているように思えるのです。
さらに今この場所で礼拝をしているみなさんと乗った赤い服の人は重なります。
みなさんからは私の後ろにある十字架が見えているはずです。
そのみなさんがこれからどこに向かうのかといえば、礼拝が終われば、司会者の言葉に促されて「後ろから退場」して行きます。
後ろに向かって目的地である教室に向かいます。
一日の学びを始めるために、後ろから出ていきます。
みなさんの一日一日がいつもうれしい日の連続であるはずがありません。
毎日人と関わりながら暮らしていますから、何かと悩みがあるはずです。
今日学校に来るのが嫌で嫌で仕方がなかった人、いるはずです。
そういう意味で心が安定しているとは限りません。
不安定な気持ちでそこに座っている人もいるはずです。
それはまるでボートに立ってオールを漕いでいる赤い服の人そのものです。
赤い服の人はいつも一人です。
週刊新潮の表紙の絵には他の人は一切出てきません。
それでは赤い服の人は孤独で悲しいかといいますと、それは感じられません。
ボートを漕ぐ後ろ姿は、一人であるにもかかわらず、決して孤独な雰囲気は漂っていません。
むしろ自立した感じがします。
その大きな理由は絵のどこかに必ずいる小さなネコの存在があるからです。
このネコが何かをしてくれるわけではありません。
小さなボートを安定させるためには、ずっとこぎ続けなければなりません。疲れたからといって、ネコが漕ぐのを代わってくれません。ネコは隣にただ座っているだけのように見えます。
ネコは具体的な行動で赤い服の人を助けてくれるわけではありませんが、しかしその存在が彼を孤独から救ってくれているのです。
この12年間、私と妻もただそこにいる織姫というネコに何かしてもらったということは一度もありません。
けれど確かに何度も救われてきたことは確かです。夜しんどい思いを引きづりながら車で帰ってきて、労作教室前の駐車場に車を止めて、ため息をつきながら車から降りて、家の方に行こうとしたら、スクールバスの後方から出てきた織姫がすっと近寄ってきて、私のすぐ前を同じ方向に歩き始める、わずかそれだけのことに、ふっと心が軽くなることがありました。
それによって心のチャンネルを切り替えることができました。
3年生45回生はもうすぐ新しい進路に漕ぎ出すことになります。
これからどこで生活するのか、どこの学校で学ぶのか、どこで働くのか、ある程度のことは決まっているとしても、自分がどのように生きていくのか、どこに向かうのかははっきりとしたことはわかりません。
敬和学園を卒業するということは、そういう場面に出ていく、漕ぎ出すということでもあるのです。
そうした不安定な状況になった時にいったい何を見るのか、何を思い出すのかです。それは3年間毎日見上げてきたこの十字架です。
この十字架は、私たちが優秀であろうがなかろうが、有能であろうがなかろうが、いい人であろうがなかろうが、そこに一切に価値は見出さない神様が、私たち一人一人を救うために送ってくださったイエス・キリストが必ず傍らにおられることを、いつでも思い起こすことができる見えるしるしなのです。
ボートに乗って不安定になる原因が、下を見ていたり、近くばかりを見ているからかも知れません。
目線を少し上げると不思議に安定してきます。
十字架は心の安定を作り出す装置でもあるのです。
その十字架を敬和生活によって持つことができていることをぜひ自覚したいものです。