毎日の礼拝

校長のお話

2014/06/03

「ドン・ガバチョ」(使徒言行録9章1~7節)

私の年齢になりますと、お世話になった方や親しくしていただいた年上の方が亡くなったとのお知らせを受けることがよくあります。

毎年この時期に、年に1回だけの高校の同窓会の会報が送られてきます。

そこにもその高校で教えられていた先生や職員の亡くなった記事が載ります。

私が教えてもらった先生の名前も時々出てきます。

今年も5月の中旬に会報が届きました。

タブロイド判3枚6ページの5ページ目に亡くなった5人の先生の名前がありました。一人はすぐにわかりました。

Iさん、社会の先生でした。

他の3人は私が在籍した3年と重なっていませんでしたので知りません。

残りのお一人はその高校で22年間働いておられましたので、知っていてもおかしくありませんが、お名前のUには心当たりがありませんでした。

それからしばらくしてのことです。

アッと思いました。

思い出したのです。

「U、ああガバチョか。間違いないガバチョや」。

ガバチョ、私たちが先生をふだん呼んでいたあだ名です。

当時NHKの人形劇に「ひょっこりひょうたん島」というのがありました。

登場人物のキャラクターにインチキ外国語を操る政治家ドン・ガバチョがいました。

その風貌にU先生がそっくりで、みんながガバチョと呼ぶようになったのです。

 

ガバチョは英語の先生で私が習ったのは1年生の時の1年間だけだったと思います。

リーディングは週4時間ですが最初の1時間で4時間分進み、残りの3時間の内容は、たとえば、当時流行っていたビージーズというイギリスのグループの曲「マサチューセッツ」の英語の歌詞を覚えてクラスで歌う、各自が英語の曲の歌詞を訳して発表する、その後でその曲をみんなで聴くなどでした。

はっきりしない部分もあるのですが、宇宙人は私たちにメッセージを送っていて、なんでも逆から読んだら宇宙人のメッセージになるというのです。

それを私たちが通学に使っていた京阪電車という私鉄の駅名を織り込んだメッセージに、変に納得させられたことがありました。

グラマーの授業では教科書の代わりにガバチョ考案の「忍者文法帖」のプリントが使われました。

これはやがて本になって出版されたのですが、売れ行きはもう一つだったようです。私とガバチョの関係は高校の時だけで、卒業後にお会いしたのは1回だけです。

それは私がフランスに行く前に、同級生の一人と会うことになった喫茶店に、彼が卒業後も親しくしていたガバチョを呼んでくれた時です。

ガバチョは私の話を聞いてくれた後で言いました。

「フランス留学なるほど、それは面白い。語学力があまりない君が留学できるというは、世の中よくなった証拠です。せいぜい楽しんできたらいいですよ」とのほめられているのか、そうでないのか、よくわからない言葉をかけてくれました。

ガバチョのことが何かの折に、ふっと思い浮かぶことがありました。

黒板に忍者文法帖を書いている様子。そして真面目な顔して冗談を連発する姿。やりたいことをやるには、年齢は関係ない、遅いということはないとの言葉。

それから40年間、会うことはまったくありませんでした。

それほど印象的な先生に、自分の人生に影響を何かの形でもたらしてくれた人に、会おうと思えばいつでも会えたはずです。

こういうことは今回に限らず、私にしばしば起こります。

その時、密度の濃い関係がありながら、その後は薄い関係になる。

たまたま会う機会があったとしても、お座なりのあいさつ程度で済ましてしまう。

そういうことが少なからずある自分を、薄情な人間かもしれない、人間関係が深くない生き方をしているのかもしれない、と考えることがありました。

 

青山七恵という作家がいます。

この人の作品に「風」というのがあるのですが、そこに収められている「二人の場合」に次のように書かれています。

「友情っていうのは、消えることもあると思う。そこにあったという事実は残るけれど、友情が燃え尽きちゃうこともあると思う」。

友情というのは何となく永遠のものであると思われがちです。

そうした友情を持たない人間は何となくダメなように思いがちです。

でも友情に終わりがあっていいということです。

そしてそれはすべての人間関係に言えることでもあると思います。

燃え尽きるというのは、それで終わったということ、終わったらいいということです。

しかし、終わったというのは悲しいことではなく、さびしいことでもなく、違う形でその人の大切こととして、内側にしっかり残ることでもあるわけです。

むしろ会わないことで、さらにその人を生かす力になることもあるということです。それが私とガバチョの関係であり、ガバチョは私にとって、まさにそういう存在であったのです。

 

今日の聖書にはサウロ、後にパウロと呼ばれる人が出てきます。

彼はイエス・キリストを信じる人たちを捕まえることに人生をかけていました。

そのパウロがある日、考えもしない形でイエス・キリストに出会います。

それを境に今度はイエス・キリストこそ救い主との立場に立って活動をし始めます。

一般的にはパウロは180度生き方を変えたといわれます。

そこで考えたいのは、パウロがイエス・キリストに出会ったのは、偶然だったのかどうかです。

パウロはイエス・キリストに人生をかけた人を暴力的に捕まえ罰することを繰り返す中で、これでいいのだろうかとの、疑問も持つこともあったはずです。

この人たちは捕まって苦しみに会うことがわかっていながら、なぜそれでも生き方を変えないのだろう。

つまり彼は、自分はこのままでいいのだろうかと見直すチャンスを探していたのです。

自分に気づかせてくれる存在との出会いを願っていたのです。

その彼の願いが、雷に打たれて一時的に目が見えなくなるという劇的な出会いになったのだと思います。

しかもパウロがイエス・キリストに出会ったのはその1回限りです。

自分が真剣に考えていること、苦しんだり悩んだりしていること、心から願っていることに対する、働きかけや答えが、出会いということを通して、それぞれに起こるのです。

さらにいえることがあります。

それは必要な出会いや答えは後から与えられだけのものとは限らないのです。

自分が悩んだり考えたりする前に、すでに与えられているかもしれないのです。

与えられているけれど、気づかずに過ごしている場合もあるのです。

そのことに気づいた時、今日という一日をどのように過ごすのかということが、真剣に考えるということが、生きる上で、いかに意味があるかがわかってきます。

それでは今日一日を、そして新しい1週間を真正面から歩んでいきましょう。