毎日の礼拝

校長のお話

2014/03/10

「痛恨の極み」(マタイによる福音書25章42~45節)

今から19年前のことです。

1995年1月17日朝、私は北海道の東、帯広市の十勝川温泉のホテルに泊まっていました。

ずいぶん前のことですが、その日のことは今もはっきり覚えています。

しかもなつかしい思い出ではなく、情けない出来事としてです。

前日の16日から、北海道のあちこちの教会から集まってきた人たち約500人と一緒に修養会をしていました。

大変有意義な修養会でした。

講師の人の話も感動的で、良い話し合いができて、楽しい交流をした翌日のことです。朝6時半過ぎ、朝ご飯を食べるために朝食会場に向かおうとしました。

すると何人もの人たちが大きなテレビを囲むように集まっていました。

その中の一人が私に気が付いて言いました。

「関西で大きな地震があったようです。小西さんの家、大丈夫ですか。神戸ですよね」。

私は起きたばかりで、その時初めて関西で大きな地震が起きたのを知りました。

それが後に阪神淡路大震災と呼ばれることになる災害でした。

 

 

テレビからはアナウンサーの地震の情報を伝える声が響いてきて、そして画面には高速道路の橋脚がずっと先まで、ねじれるように倒れているのが映っていました。

今でも情けないのは、それを見ながら、私が何を考え何をしたかです。

高速道路が横倒しになるというのは相当大きな地震が起きたことはわかります。

私の親兄弟はその当時、テレビに横倒しの姿が映っている阪神高速道路から山側にる神戸市東灘区や西宮市に住んでいました。

距離にしたら、数kmから10㎞程度です。

「家も相当揺れたやろうな。被害出たやろうか。ご飯食べたら電話せんといかんな」と考えながら朝食会場に向かったのです。

そして、食事を終えることになって、ようやくこれはご飯を食べている場合ではなく、一刻を争うことだと気づいたのです。

地震のニュースを知ってから、ずいぶん時間が経ってからのことでした。

私にとって、このタイムラグが、いかに自分が、感覚的に鈍い人間であるかを教えてくれることになりました。

それまでの私は、自分は人間としての持つべき感性や想像力をそれなりに持っているとの自負がありました。

牧師として、人の痛みや社会の痛みに対して、それなりに敏感に反応できていると思っていました。

頑丈な阪神高速の橋脚がねじれるように倒れているのは、それと同じ力がその周辺の建物にもかかったわけで、当然それらは大きな被害を受けているはずです。

家の中にいる人たちがどうなっているかについて、思いが至ったはずなのです。

もし、私が本当に鋭い感性と想像力を持っていたなら、そうした場所から発せられる助けを求める声が聞こえてきたはずです。

建物の下敷きになっている人の姿やその人たちを救い出そうとして必死になっている人や、呆然と立ち尽くしている人の姿が見えたはずです。

しかし、その時の私にはそうした声は聞こえず、姿は見えていませんでした。

私はただテレビの画面だけを見ているだけ、そこから聞こえてくるアナウンサーの声を聞いているだけだったのです。

画面の外側、向こう側で今起こっていること、そこ生活している人たちが今どうなっているかに気づくまでに、時間がかかったのです。

 

 

今日の聖書の見出しは「すべての民族を裁く」です。

誰が人としてするべき生き方をしているか、していないかについて書かれています。

今から2000年以上前のことです。当時神様を無視するような生活をすることは、今の時代よりはるかに恐ろしいことと考えられていました。

神様に逆らうような生活をすれば、困った時に助けてもらえないどころか、自分はもちろん子どもや孫まで不幸なことが起こると誰もが思っていました。

ところが今日の箇所で、ある人たちに対して、お前たちは神である私の言葉に従わない生き方をしたと厳しく叱っているのです。

そう言われた人たちは反論します。

いつ私たちが、あなたが飢えていた時に食べさせませんでしたか。

飲ませませんでしたか。

旅をしていたあなたをお泊めしませんでしたか。

病気をされた時に介抱をしませんでしたか。

そんなことをしたことは一度もありません。

記憶にありません。

それに対して神様は言いました。

お前は大切なことがわかっていない。

この最も小さい者の1人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのだ。

助けを求めている人の声を聞こうとしない。

命を脅かされながら生きている人の叫びを聞かない、その姿を見ようとしないことが、神である私にしないことと同じなのだ、というわけです。

この話からわかることは、私たちが気づかないでいることの中に、自分には関係ないと思っていることの中に、実は自分にとって最も関係あることがあるということです。そして、それに気づかないでいたら、いくら幸せに生きたい、楽しく暮らしたいと考え願っても、それはかなえられないということです。

 

 

今日の見出しは「すべての民族を裁く」です。

全体が問われているのです。

一人ひとりの生き方と同時に国の在り方が問われているのです。

日本という国にとって、飢えている人、のどが渇いている人、泊まるべき場所がない人、着るものがなくて裸同然の人、病気で苦しんでいる人、つまり命が脅かされ、生きる権利が奪われ、弱い立場に生きなければならない人とは、災害で被災をした人たちです。

より身近なことで言えば3年前の明日、東日本大震災によって、被災者となった人たちであり、さらに福島第一原発事故により、住み慣れた土地や家に戻ることができない人たちであり、今も仮設住宅などで暮らさなければならない26万人の人たちです。

もし、私が19年前、悲しむものと共に悲しむ、泣く者と共に泣く、というような、「寄り添う」姿勢をもっと大切にする生き方をしていたら、テレビの画面の外側で発せられている叫びや助けを求める声が聴こえ、その姿が見えたはずです。

もっというならば、助けを求める人の傍らにいるイエス様の姿が見えたはずです。

ですから私は、阪神淡路大震災以降、そういう情けない思いは2度としたくない、と思いながら生きてきました。

東日本大震災と福島第一原発事故のために、今しんどい生活を強いられている人に対して、目を閉ざすことは、自分の人生とこの国の将来を閉ざすことです。

神から生き方を問われているその問いにしっかり応えるためにも、敬和学園は少しでも、被災者と関わる活動を始めました。

寄り添う姿勢を大切に、さらに強く持ちたいと思います。

被災者に対して、そして日常の生活の中で出会う人に対して、寄り添う姿勢をしっかり持つこと、それがキリスト教学校で学び働く私たちに求められていることです。

それでは今日からの始まる第5定期テストにしっかり取り組みましょう。