毎日の礼拝

校長のお話

2014/02/10

「落語宗論」(使徒言行録19章8~10節)

今日は落語の話から聞いてもらいます。

比較的古い落語の一つに「宗論」というのがあります。

宗教の宗に論争の論と書いて宗論といいます。

読んで字のごとく、宗論というのは宗教論争のことです。

宗論の本来の意味は、仏教で教義とその解釈についてお互いが議論することです。

議論ですから、相手の立場や主張を尊重することが大切です。

ところが人間というのは、あつくなったり、エスカレートすると、相手を尊重するということを忘れて、議論で相手をやり込めてしまおうとしたり、自分の正しさを主張するあまり、相手が傷つく言葉を使ったりすることがあります。

それが集団や民族同士で起こるのが宗教戦争と呼ばれるものです。

ただしそれらはお互いが信じる宗教の違いから起こるのではありません。

一番の原因は権力、支配、領土、資源といった利害関係の問題です。

自分たちの正しさや権利の主張をするために宗教が利用されるのです。

そして、それを暴力的に行うのが宗教戦争です。

 

 

そこに人間の愚かさが良く見えるわけですが、落語・宗論は、そのあたりのことを面白おかしく笑いにしながら、同時にお互いが仲良く生きていくためには何が必要かを織り込んだ話になっています。

こんな話です。

大旦那さんが番頭さんに、若旦那である息子の作次郎はまだ帰ってこないのかと、不満を漏らします。

若旦那は朝早く出かけていました。

どこに行ったのかといいますと、それはキリスト教の教会です。

若旦那は洗礼を受けてクリスチャンになっていたのです。

大旦那はそれが大変不満でした。

というのは、大旦那自身が熱心な仏教浄土真宗の信者で阿弥陀様を信心していました。

さらに困ると考えていることがありました。

大旦那が番頭さんにそのあたりのことを愚痴っているのですが、それを紹介します。

「…そらまぁ、信心ごとじゃ決して悪いこっちゃないで、普通にやってる分には結構なこっちゃが、それも程度もんや。

それにちょっとは宗旨も考えてもらわんといかん、よりによってキリスト教みたいなもんに凝りやがって……、そらまぁ、西洋には西洋の神さん、仏さんがいてなさるじゃろぉけど、そらそこの国の人に任しといたらどないや。

何でうちのせがれがキリスト教の信者にならないかんねん?

だいち、あいつはうちの商売考えたことあるんか。

うちは代々の仏壇(ぶったん)屋やでおい。

仏壇屋のせがれが、首から十字架ぶら下げて、店番しててどないすんねん……。

それにあのものの言ぃよぉ、もぉちょっと何とかならんのかなぁ、あの外国から来た牧師、宣教師とかいぅ人のしゃべり方を真似してんのかも分からんが、ケッタイな調子でものを言ぅ…」。

仏壇屋の若旦那がクリスチャンというわけです。

大旦那からすれば、それでは世間体が悪いし商売に差し障りがあるというわけです。

 

 

話は佳境に入り、教会から帰ってきた息子に厳しく説教をしようとする大旦那と、若旦那の宗教論争が始まります。

落語ですので、どこかとぼけていて、ついつい笑ってしまいます。

世間体と商売のことを気にして、クリスチャンであることが、いかに愚かであるかを言い立てる父親に対して、若旦那は聖書の言葉や考えを持ち出して、イエス・キリストが十字架に架かったこと、それによってすべての人が救われることになった、という話を真剣にします。

若旦那は主の祈りまでで唱え始めます。

お互いが信じているとの自分の立場を変えないで、相手を変えようといくら議論をしても、わかりあうことはできませんし、納得できる答えを見つけることもできません。

議論はますますエスカレートして、収まりがつかなくなった大旦那が、実力行使に出ます。

若旦那の頭をポカッとたたいて大騒動になったところへ、信心のことで仏壇屋の親子が言い争っていては近所に格好が悪い、それに「宗論はどっちが負けても、お釈迦さんの恥でおます」と番頭さんが仲裁に入ります。

落語・宗論のオチは、大旦那が、お釈迦さんのことを持ち出したということは、あんたも浄土真宗か、それとも息子と一緒にキリストさんか、と尋ねたのに、番頭さんが、「私はお二人のケンカを仲裁した、時の氏神でございます」で終わります。

 

 

これは落語ですので、落ちがあって、笑いで終わりますが、まさに宗教戦争です。

そして、宗教戦争がお互いの利害関係が一番の原因のように、親子の争いも若旦那がクリスチャンでは仏壇屋の商売にならない、世間体が悪いという損得が原因です。

落語・宗論は物事を損得から、利害関係から考える限り、自分が願う人間関係も、平和な社会も生まれないことを教えてくれます。

そして、人間が本質的にもっている弱さがどのような形で出てくるのかを教えてくれます。

それにしても、親と子が宗教について言い争っているわけですから、こんな大事な時に仏さんも神様もいったいどこに行ったんだろうと思います。

肝心な時にいてもらわないと困ります。

そんなことを考えていて、気づかされました。

番頭さんが言いました。

「宗論はどっちが負けてもお釈迦さんの恥です。私はお二人のケンカを仲裁する、時の氏神でございます」。

この言葉でもって、親と子はお互いの違いを違いとして認め、気持ちを収めるきっかけをもらいました。

そういうことです。

つまり、どこに行ったのかと思う神様は、番頭さんの言葉を通して、困った状況にいる親と子に語りかけているのです。

神様はこういう形でその人の傍らにいて、共に歩んでくださっているということです。そのことを心に刻みながら生きるのかそうでないのか、そのことを知った生き方をするのかそうでないのか、それによって、人生と社会は全く違ったものになっていく、違ったものに見えてくるのです。