毎日の礼拝

校長のお話

2014/01/07

「ごちそうさん」(ローマの信徒への手紙3章9~12節)

NHK朝の連続テレビ小説、今やっているのは「ごちそうさん」です。

ドラマのタイトルを、食事の時の「いただきます」に対する「ごちそうさま」「ごちそうさん」からとっているだけに、食べることにまつわる話が毎日のように出てきます。

私は7時30分からのBSテレビの放送で何となく見ています。

12月も末の放送での話です。

出産を目前にした主人公の芽い子さんに義理の父親が手紙を渡します。

手紙は新しく親になる息子と娘に話しておきたいことが1つだけあるとの出だしで始まっていました。

そして自分が辿ってきた人生について書かれていました。

時代は明治、日清、日露戦争の頃のことです。

当時、日本は西洋の列強に追いつき追い越すためには、何より軍備の増強が必要との方針を持っていました。

そのためには鉄や銅といった重金属を生産する必要があります。

父親は銅山の技師をしていました。

父親は銅の生産性を高めることが、日本の繁栄と平和を築くことになるとの国の政策を信じて働いていました。

銅を掘り出し精錬し製品にすることは、一方で大きな犠牲と破壊を生み出すことになります。

その典型的な例が足尾銅山です。

きちんとした処理をしないと、鉱山からは硫化物、硫酸などの酸化物水溶液が流れだし、深刻な環境破壊を招きます

父親の働いていた銅山でも環境破壊が起こります。

山の木や植物が枯れ、はげ山になります。

鉱毒が川に流れると、魚が死にます。

作物が育たなくなります。

当然鉱山で働く人や地域に住む人たちにも健康被害が出始めます。

その被害は特に子どもや老人に深刻なものとなります。

地域住民から抗議の声が出てきます。

それが日に日に大きくなる中で、父親は会社から命令を受けます。

それは地域住民の抗議や訴えを抑える役目をすることでした。

 

 

父親はもともと、自分は鉱山技師として国の発展と平和に貢献しているとの自負がありました。

さらに言うならば、国が発展し平和を築くためには、少々の犠牲はあっても仕方がないと考えていました。

けれど、目の前で子どもが鉱毒のために血を吐いて倒れるのを見て、プツンとすべてが切れたのです。

直後に奥さんが亡くなったこともあって、会社を辞め、逃げるように鉱山から去っていきます。

手紙にはそれからの人生は、逃げたところからまた逃げる、その繰り返しをしてきたことが書かれています。

そういう自分の人生を告白しながら、息子と娘に人として、また親としてどのように生きてほしいかを、手紙に綴ります。

父親は自分が信じて行ってきたことが、結果的に多くの人を不幸にする大きな過ちを起こすことになることに気づけなかった自分を情けなく思うわけです。

そこで、それからの人生を、周囲から情けない人生を過ごしていると思われるような生き方をすることによって、償おうとしたのです。

ですから、手紙の中で書きました。

「人間は過ちに前もって気づくことはできません。どんなに気を付けていても気づけません。しかし、その後をどのように生きるかを考えることはできます。どう生きるかを選ぶことはできます」。

確かにそうです。

私たちはどんなに気を付けていても過ちから逃れることはできません。

 

 

同じ失敗を繰り返すことがあります。

それはやってはいけないでしょう、ということを、それは人として、敬和の生徒として、それはやったらだめでしょう、ということを、言葉にしたり、行動にしたりすることがあります。

逆にそれはするべきことでしょう、言うべきことでしょう、ということをしなかったり、言葉にせずに済ますことがあります。

キリスト教はそれを原罪と呼んでいます。

原因の原に、罪と書いて原罪といいます。

どんなに正しいように見えても、どこか間違っている、そこに過ちがあり罪がある、それが人間の考えること、人間という存在というのがキリスト教の出発点です。

今日の聖書にはそのことが書かれています。

「では、どうなのか、わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。正しい者はいない。一人もいない」。

聖書に登場する代表的な人物にパウロがいます。

パウロはキリスト教をユダヤ人だけでなくギリシア人や他の民族の間にも広げ、また時代を超えて多くの人たちに伝えるきっかけを作るという、キリスト教にとって貢献度№1の人物です。

そのパウロが最初はどうだったかというと、それはイエス・キリストを信じる人たちを片っ端から捕まえるということにこそ、自分の人生があると信じ、そこに自分の命を懸けている人でした。

彼はイエス・キリストを信じる人間を迫害することこそ正義だと、そのために人の命が失われても、多少の犠牲があっても、それはそれでゆるされること、それが世の中を豊かにし、平和にすることだと信じていました。

ところが自分が目の見えない状況になり、痛みと弱さを持つ立場になった時に、それがいかに間違いであったかに気づかされました。

そして、それまでとは180度違う生き方を始めたのです。

まさにパウロは「それから後の生き方」を選び取ったのです。

 

 

2014年が始まりました。

新しい年の初めには、今年一年どうでありたいか、どういう自分でありたいか、どのような世の中になってほしいかを考えます。

一人一人が幸せに、そして世の中、世界が平和であってほしいと願います。

お互いの人間関係が優しさに満ちたものであってほしい、国と国の関係がぎくしゃくしないものであってほしいと願います。

そのためには、まず自らの在り様を見つめなおす必要があります。

私たちは、まさに正しい人はいない、一人もいない。

正しい国はない、一つもない、との考え方に立つことが求められます。

そしてお互いの痛みや弱さを大切にする寛容さが求められているのです。

それを心に刻みながら、2014年を共に歩んでいきたいと願います。

そこに、平和の主イエス・キリストは必ず生きて働き、必要な知恵と力が与えられていきます。