毎日の礼拝

校長のお話

2013/12/04

「ウェイティング・サークル」(マタイによる福音書2章1~2節)

今日歌った賛美歌のタイトルは「主を待ち望むアドベント」でした。

歌詞の内容はローソクに火をつけるのを1週間に1本ずつ増やしながら、主がこられるのを、指折り数えながら待ちます、というものです。

ですから敬和学園の全校礼拝でも、こうしてローソクを用意します。

主というのはイエス・キリストのことです。

アドベントはラテン語で、向こうからやって来る、との意味です。

つまり242番はイエス様が、私たちのところ、この世界にやって来られるのを期待して待つという気持ちを込めた讃美歌であるわけです。

街中ではすでに1か月以上前からクリスマスモードに入っていますが、正式なクリスマス週間は、12月25日の前の日曜日から数えて3回前の日曜日から始まります。

今年のクリスマス礼拝は12月22日なので、12月1日の日曜日から始まりました。

そして、この期間をアドベントと呼んでいます。

 

 

日本語に訳すと、待降節となります。

このことから、イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスには「待つ」、英語にすると「ウェイティング」という意味合いが強く含まれることがわかります。

私がウェイティングという英語からすぐに連想するのは野球です。

野球の戦術としてウェイティングというのがあります。

これは相手ピッチャーの調子が悪いコントロールが悪いときに、バッターがバットを振らないでじっくり待ってフォアボールを選んだり、焦らせたりすることです。

それからウェイティング・サークルというのもあります。

正式にはネクスト・バッターズ・サークルというのだそうです。

この言葉からもわかりますが、ウェイティング・サークルは今打席に立っているバッターの次に打つバッターが待つ場所のことです。

1塁側3塁側にそれぞれにあります。

サークルというように、直径1,52mの円の中で次のバッターは待つわけです。

こういうルールがあるのは野球とソフトボールだけです。

サッカーやその他のスポーツでは、次に出る選手や交代選手はコートの外側なら、ベンチに座っていてもいいですし、適当な場所に立ち、少々ならうろうろすることもできます。

野球でそれがゆるされないのは、それだけ繊細で、ちょっとしたことで状況が変わってしまうスポーツだからです。

ウェイティング・サークルから出ないで待っている限り、次のバッターは自由です。バットを振ってもいいですし、座っていてもかまいません。

けれど、何も見ないで、何も考えないでは、まずヒットは打てません。

アウトになる確率は高くなります。

バッターボックスから一番近い場所にいますので、よそ見をしていたら、ファールボールが直撃して大ケガをすることもあります。

優秀な成績を残す選手ほど、ウェイティング・サークルでは集中します。

ピッチャーがどんなボールで攻めてくるのか、速いボールか変化球か、コントロールがいいのか悪いのか、キャッチャーはピッチャーにどのようなサインを送っているのか、審判のストライクボールの判定は甘いのか辛いのか。

その他にも考えることや見ることがたくさんあります。

自分がバッターボックスに立つ前にするべき準備はいくらでもあるのです。

それをしないで待つのか、して待つのかでは、結果や状況はまったく違ったものになります。

 

 

こうしたことが言えるのは野球だけではありません。

それは生き方そのものにも言えることです。

そして、生き方において、どのような待ち方をしたらいいのか、それをアドベントという言葉自身が示してくれています。

アドベントから作られた言葉があります。

アドベンチャーです。

日本語では冒険と訳されます。

冒険とは「何らかの目的のために、危険に満ちた体験の中に身を置くこと」と辞書に書かれています。

イメージとしては体を動かす、行動するという感じでしょうか。

冒険する人は勇気がある人というイメージも出てきます。

待つことのアドベントと、行動するアドベンチャー、全く逆のような感じがしますが、案外そうではありません。

冒険ですぐに思い浮かぶのが冒険物語です。

子ども向けの本には○○の冒険というタイトルがよく見られます。

トムソーヤの冒険、ハックルベリーフィンの冒険、これらの本を読んでわくわくしたり、自分もその冒険物語の主人公になったりして楽しくなります。

ただ冒険は体を動かしたり行動したりするだけではありません。

私たちがするように求められている冒険に、知的冒険があります。

わかりやすく言うと頭の中であれこれ思い巡らすことです。

あれこれ、じっと考えることです。

体だけでなく心を動かすことです。

今日の聖書に登場する東宝の占星術の学者たちがそうでした。

彼らは救世主を求めて冒険することを決心しました。

しかしその前に、生まれ育った場所でたくさんの知的冒険をしています。

自分のこれまでどうだったのだろうか。このままでいいのだろうか。

自分が当たり前のようにふるまってきた態度、何の気なしに使う言葉、そのことで、周囲の人を傷つけたり悲しませたりすることはなかっただろうか。

いくら注意されても聞き流し、済ませてきたことに、本当は一番考えなければならないことがあったのではないだろうか。

そのようなことを自分の頭の中で思いめぐらすことによって、知的冒険は始まります。知的冒険は自分の体と考え方や自分の人生をある方向に導いてくれます。

その意味で誰もがしなければならない冒険です。

 

 

これからどのような生き方をしていけばいいのか。

それに答えを与えてくれるためにやって来られた、アドベントされたのがイエス・キリストです。

イエス様は人として最もふさわしい生き方はどのようなものでしょうか、と尋ねられた時に答えられました。

神を愛し、隣人を愛しなさい。

神様をないがしろにするような生き方、周囲の人をバカにするような生き方、存在を否定するような生き方をすることは、結果的に自分を生きにくくすることであり、社会をダメにすることだ、といわれたのです。

それを自分が今生きている状況で具体的に考えることの大切さを教えられたのです。敬和学園で学ぶみなさんの人生の知的冒険は始まったばかりです。

言い換えるならみなさんは今敬和学園というウェイティング・サークルの中で時間を過ごしているのです。

敬和学園のウェイティング・サークルで過ごす時間は3年です。

そして44回生3年生は3年間のウェイティング・サークルから、もうすぐ外に出ていくことになるのです。

3年間で知的冒険をするだけの準備を十分にできた人は立派ですが、その自信のない人も多くいるはずです。

けれど、敬和学園というウェイティング・サークルで過ごすことによって、心の深くに持つことができたこと、一人ひとりを神は決して見捨てられないということがあるはずです。

アドベンチャー、知的冒険をしようと考える人の傍らに必ずイエス・キリストはおられるということです。

それを力として一日一日を過ごしていきましょう。

2日間の定期テストと社会科特別授業に取り組みましょう。