毎日の礼拝

校長のお話

2009/12/07

「骸骨ビルの庭」(ルカによる福音書2章8節~12節)

 クリスマス12月25日がイエス・キリストの誕生を祝う日というのはよく知られています。イエス様ほど回数を多く誕生のお祝いをしてもらう存在は他にはいません。

毎年のように全世界の各地でお祝いされます。
ふうつ誕生のお祝いは生まれた次の年からで、その人が亡くなればお祝いもしなくなります。

 
 歴史的な業績を残した人の偉業をたたえる意味で、生誕100年、200年を記念して行事が行われることはあります。
今年は作家太宰治の生誕100年、そして同じ作家の松本清張も生誕100年ということですが、101年目の来年はお祝いされることはないでしょう。
ところがクリスマス、イエス様は中断することなく毎年必ず誕生をお祝いされます。
一般的には誕生をお祝いするのは、ふうつ、その人の成長をお祝いする、健康をお祝いするために行います。
ところがクリスマスの主人公イエス様はいつまでたっても年をとりません。
毎年赤ん坊のイエス様としてお祝いします。
しかもイエス様の誕生をお祝いするようになったのは、生まれた次の年からではありません。
それは西暦325年のニカイア宗教会議というところで決めてからです。
つまり、イエス様は生きている時には誕生のお祝いをされなくて、死んで300年以上経ってから、お祝いされるようになったということです。
そういう意味でイエス様の誕生をお祝いするクリスマスというのはふつうの誕生祝いでないことがわかります。

イエス様の誕生を祝うことの意味、目的は何でしょうか。

 
 わたしの好きな作家に宮本輝という人がいます。
一番新しく出た本は「骸骨ビルの庭」というタイトルです。
話は大阪十三というところに戦争で焼け残った、周りの人たちから骸骨ビルと名前がつけられた建物があって、そこが舞台です。
主な登場人物は、戦争のために孤児となった子どもたちとそれを育てようとした二人の男です。
そして主人公はそのビルから彼らを立ち退かせるために東京からやってきて、骸骨ビルの住人からヤギショウと呼ばれるようになった八木沢省一郎です。
話はヤギショウの日記を中心に展開していきます。
話の中で、戦争で孤児になったこどもたち、戦後の混乱と貧しい生活のために捨てられたこどもたちを、骸骨ビルで育てた青年の一人である阿部轍正の心情が語られます。阿部轍正は国や行政からも放ったらかしにされて、そのままでは死んでしまう子どもたちを引き取って、育てるという周りの人から見れば大変すばらしい行いに見える、そのことを何の迷いもなく続けたのではありませんでした。
阿部は兵士として戦場に送られ、部隊が壊滅しほとんど戦死したその中でたまたま生き残ります。
そして、これもたまたま出会った戦争孤児たちを育てるために、自分は戦争で死なずに生きて帰ってきたと考え、それを自分の使命と決意をします。
ところがその決意というのは、ふとしたことで揺らぐことがあったのです。
阿部は言いました。「人間はなかなか変われない生き物なのだ」。
阿部の言葉からわかるのは、人間が変わるのは難しいということです。
まして自分だけの力で変わることはなかなかできないということです。

 

 

わたしたちは時々思うことがあります。
自分はこれでいいのだろうか。
敬和学園に入学することを決意させたのが、今の自分を変えたいからという思いがあって、高校で変わりたいという願いのもとに敬和学園に入ろうと決めた人、そういう人この中にもたくさんいるはずです。
でも学校生活を続ける中で、その決意もいつの間にか緩んでしまい、ふっと気がついたら、中学までの自分と何も変わっていない、とがっくりすることがあり、落ち込むことがあるはずです。
そういう自分に辛抱ができなくてやめてしまう人がいるわけです。
この中にもそういうことで悩んでいる人いるはずです。
そういうわたしたちに対して、阿部轍正の続きの言葉は響いてきます。
「自分の人生を決める覚悟は、一度や二度の決意で定まり切れるものではない。何度も何度も、これでもかこれでもかと教えられ、叱咤され、励まされ、荒々しい力で原点にひきずり戻され、そのたびに決意を新たにし続けて、やっと人間は自分の根底を変えていくことができるのだと思う」。
1回や2回決意したからといって、自分の中身が変わって思い通りになるはずがないわけです。

 
 時には失敗しながら、そのためにもう自分はだめだと自己嫌悪になったりしながら、そしてその時に、敬和生にとって引きずり戻される原点というのは、自分が選んだから敬和学園に入学したのではなく、神様の選びがあったから入学できたという言葉です。
その原点に立って、あなたはそれでいいんだよと励まされ、周囲に助けられながら、繰り返しながら、ようやく人は変わっていくということです。
そうやって敬和生活3年をやり遂げることができるのです。それが今の40回生です。
そうした旅の途中にいるみなさん一人ひとりを敬和生に選ばれた神様が一番望まれているのは、この世界が平和になることです。
お互いの違いが大切にされ、そして、力や権力で持って人の命や生活を奪わない世の中になることです。

 
 そのように考える時、クリスマスを通して、赤ん坊のイエス・キリストの誕生を毎年お祝いする意味がわかってきます。
人間というのは不思議なもので、どんなひどいと思われる人であっても不思議と赤ん坊を前にすると素直になるのです。
素直になるというのは、人が変わるためには絶対必要なことです。
素直になれる時、その時が望む自分に変われる時です。
人間には変わり時というものがあるのです。
それを待つことが必要、大切なのです。
そこに毎年赤ん坊のイエス・キリストの誕生をお祝いする意味があります。
イエス・キリストの誕生を毎年祝うのは、人が変わり、世界が真剣に平和を作り出そうとする姿勢に変わるその時が必ず来ると信じてのことです。