毎日の礼拝

校長のお話

2013/11/07

「ブランケット・キャッツ」(ルカによる福音書24章13~21節)

織姫と名前を付けたネコがいます。

10年程前から私の家に出入りをしています。

朝と晩にはキャットフードを食べるために玄関先で待っています。

私の家の周囲を縄張りにして生活しています。

寝る場所はいくつかあって、秋から冬にかけては風や寒さを避けるために、大体決まった一台のスクールバスの後ろ側のエンジン付近に内側から上がっています。

そのために機械油で体全体が薄汚れてきます。

私が夜に車で帰ってきて、労作教室前の駐車場に止めると、しばらくするとスクールバスの下から出てきて、寄り添うように私の家の玄関までついてきます。

そして、中に入りブランケットを敷いた箱の中に入って、しばらくの時間ぐっすり寝て、やがてニャーという外に出してほしいとの合図と共に出ていきます。

織姫の年齢は推定ですが、10,11歳ではないかと思っています。

人間でいえば相当の年齢のはずです。

以前に比べてかなり老いてきました。


その織姫の半分の年齢6歳、人間でいうと40歳程度の年齢のネコが主人公の物語があります。

重松清の「ブランケット・キャッツ」という本の中の「旅に出たブランケット・キャット」に登場するアメリカンショートヘアーです。

ブランケット・キャットというのはレンタルネコのことです。

ネコには特有の雰囲気があって、その存在にしばしば心が癒されたり、慰められたりします。

そこで飼うことはできないけれど、2泊3日のレンタルで、癒しや慰めを味わいたい様々な事情を抱えた人のために、レンタルネコという商売があるようです。

ブランケット・キャットには名前が付けられていません。

2泊3日借りた人が、つけたい名前をつけるためです。

「旅に出たブランケット・キャット」という話に登場するネコ、通称タビーはフッとしたことから借主のもとから逃げ出します。

それは心の奥底から聞こえてくる声を聴いたからです。

「俺たちは海を渡って長い旅をしてきた。忘れるな。思い出せ。俺たちは荒野を西に進んだ。幼い旅人のそばに寄り添って、岩山を越え、川を渡り、砂嵐の中を進んだ」。レンタルネコは2泊3日しか同じ家にいません。

レンタル業者のゲージが居場所かというと、それはあくまでレンタルされるまでの仮の住家です。

そういう生活を6年余り続けてきて、このままで自分はいいのだろうかとタビーにフッと疑問がわいてきました。

そこで心の奥底から聴こえてきた声に従って旅に出たわけです。


タビーは一台のトラックの荷台に乗り込んだのですが、そこには先客がいました。

離婚をして遠く離れたところに住む母親に会おうと、やはり無断でトラックに乗り込んでいたサトル君とエミちゃんという兄妹です。

幼いヱミちゃんは母親がいなくなったことの意味がわかりません。

とにかく会いたい一心でした。

サトル君にはそのあたりの事情がある程度わかっていましたが、遠くへ行った母親と新たな母親となる女性に対して、何かしら許せなかったようです。

兄妹の会話から徐々に事情が分かってきたトビーは、もし人間の言葉がしゃべれるなら次のように言ってやりたいと思います。

「サトル君、みんな一人きりなんだよ。一人きりで生きていくんだ。人生が長い旅なら、その旅は、やっぱり一人旅なんだよ。親友だって、夫婦だって、親子だって、いつかは離れ離れになってしまうんだ。だからママがホンモノだとかニセモノだとか、新しいとか古いとか、そんなのはどうだっていいんだよ」。

この話は「一人きり」ということと「一人ぼっち」は似ているようで、まったく違うことを教えてくれます。

もう一つ「寄り添う」ことと「すり寄る」ことの違いを明らかにしています。

さらに「一人ぼっちと一人きり」と「寄り添う、すり寄る」ことのあるべき関係を教えてくれます。

一人ぼっちというのは、誰かと一緒にいたいのに一人になってしまうことです。

孤立することです。

一人ぼっちになりたくない、孤立するのは嫌だと恐れたときに、人はしばしば誰かにすり寄っていこうとします。

けれど、そのことが良い結果をもたらすことはあまりないようです。

かえって孤立を深めることになりがちです。

そこで忘れてはいけないのが、トビーが言うように、人は誰でも一人きりの人生を歩む存在であることです。

一人きりの人生を歩んでいこうとするところに、その人が生きる道が拓かれていくのです。

その道には必ず寄り添ってくれる存在がいるということです。


今日の聖書にはヱマオという町に向かって歩く二人の人が出てきます。

彼らはひどく落ち込んでいました。

それは自分たちの人生の希望だと信じていたイエス様がエルサレムの町で十字架にかけられて死んだからです。

これから何を頼りに、誰に頼って生きていけばよいのかわからなくなりました。

まさに一人ぼっちにされたように思えたのです。

だからエルサレムから逃げるように出てきたのです。

二人と途中から一緒に歩き始めた人がいました。

それが誰なのか彼らにはわかりませんでしたが、夜になって一緒に食事する段になって、イエス様だということがわかりました。

その出来事を体験した彼らは、逃げ出したエルサレムに戻っていきます。

その意味は、彼らは一人きりの人生を歩き始めたということです。

2人は一人きりの人生に、目に見える見えないに関係なく、必ず寄り添ってくれる存在がいるということがわかったからです。

その後二人がどのように生きたか、聖書には書かれていません。

けれど、彼らがいきいきと生きることができたであろうことは想像できます。

さらに彼ら自身が、一人きりを生きる人に寄り添う存在になったであろうことにも気づかされます。

寄り添うこととすり寄ることはまったく違います。

敬和学園で学校生活を過ごす中で、しっかり気づきたいのは、一人きりを生きることにこそ、その人の道があるということです。

誰かにすり寄る必要はないのです。

そのあなたに必ず寄り添ってくれる存在がいることを忘れないことです。

さらに寄り添ってくれる存在がわからなくても、あなた自身が誰かに寄り添うことはできるはずです。

そのことにしっかり気づきながら新しい1週間を過ごしていきましょう。