毎日の礼拝

校長のお話

2009/11/06

「おとうと」  (イザヤ53・4~6)

「おとうと」というタイトルの小説があります。
今から50年前に書かれました。
作者は幸田文という女性です。
52歳の時の作品です。

小説「おとうと」は幸田文の3歳下の弟碧郎の中学生だった14歳から19歳で結核で亡くなるまでを綴った小説です。
最近読み直す機会がありました。
行きの新幹線の中で読み始め、帰りの新幹線の中で読み終えたのですが、最後の部分は思わず涙が出てきました。
幸いメガネをかけマスクをしていましたので周囲の人にはわからなかったと思います。

 

主人公の家は父親が有名な作家でした。
本当の母親は病気でなくなり、新しく母親となった人はリューマチで体調もよくない時が多く、そのため朝と晩の食事の支度やお弁当作りは女学校に通っている主人公の仕事でした。
中学に通い始めた弟でしたが、ちょっとした誤解から同級生が鉄棒から落ちて腕を骨折した加害者にされてしまいます。
自宅謹慎になり、学校に戻ってみますと、周囲の様子はそれまでと違いよそよそしくなります。
そこにいわゆる不良仲間が目をつけて、弟を仲間に引き入れて行きます。
最初は断っていた弟ですが、やがて万引きを手伝うようになり、姉の心配をよそに生活はどんどん乱れていき、心の中はすさんでいきます。
弟の様子からあらためてわかるのが、人間はふっとしたことがきっかけで、自分や周りの人が考えもしなかったような人生を送ることになるのだということです。
「おとうと」の場合、それは同級生の腕を骨折させたという周囲の誤解からです。

 
小説には弟がグレ始めたとあります。
グレるという言葉は今ほとんど使いません。
今の言葉で言えば「ワルになる」ということでしょうか。
グレるの語源は「はぐれる」です。
はぐれるは群れから離れることです。
群れから離れる、はぐれる、グレるとなります。
グレる原因は本人にも問題があることは否定できませんが、群れからはぐれるを考えた時、それはハジカレる場合も少なくありません。
理由もわからないまま、ハジカレる、ことからいじめがはじまるわけです。
小説「おとうと」の場合も、周囲の無責任なハジキによってはぐれることになってしまった部分もありますから、グレた弟が悪いとは必ずしもいえないのです。
3歳年上の姉である主人公は、それがわかっているだけに、切なくて、何とかしてやりたくて、一生懸命守ってやろうとするのです。

 
小説「おとうと」にはキリスト教のことが重要な場面場面で出てきます。
理由は新しく母親となった人がクリスチャンだったからです。
ただし、その母親自身に馴染みにくいこともあって、キリスト教も馴染みにくいものになっています。
それでも家族の一人がクリスチャンであるがゆえに、主人公もキリスト教には全く無関係である、無関心というわけではありませんでした。
それは、敬和学園がキリスト教の学校であり、そこに入学した自分がキリスト教とは無関係であるといえないのと同じようなものです。

 
興味深い形でキリスト教が出てきます。
あるとき、主人公は母親から頼まれて商店やデパートで買い物をします。
それを風呂敷に包んで持ち歩きます。
その彼女を刑事らしき人物が呼びとめ、別室に連れて行こうとします。
主人公は突然のことでびっくりしますが、それでも理由がわからず連れて行かれるのは納得できないと抵抗します。
主人公は自分が万引きの犯人にされたと思ったのです。
当然それは誤解ですから、別室で取り調べるのではなく、ここで風呂敷包みを開くから、万引きしたかしていないか調べたらいいとがんばります。
そこまできて刑事は人違いだったことに気づきます。
刑事は駆け落ちをした若い女性を探していて、たまたまよく似た服装とよく似た風呂敷包みを持っていた主人公を、その女性と勘違いをしたわけです。
あわてる刑事とデパートの係員を前に勝ち誇った気持ちになって、「履物をそろえてください」といいながら出て行こうと、帯の間に挟んである下足札を触ろうとしました。
ところが主人公の手に触れたものは下足札ではなく、時計の鎖の先に下げてある十字架だったのです。
その小さな十字架に触れた瞬間、主人公の得意になって勝ち誇った心はみしっと音を立てて崩れました。
ただしまったと思うばかりでした。
それは人間の思い上がりに対する神の裁きであったわけです。
たとえどのような理由があるにしても、そういう思い上がりをもつこと、高慢な態度に出ることを神さまは決しておゆるしにならないことを、それがその人のためにならないことを、主人公は思い知らされるわけです。

 
その一方でまったく逆のことがありました。
それは弟が結核で病状が悪くなり、死を前にしてのことです。
自分が死ぬとわかった時から、弟は本当の自分、内面的なすばらしさを見せ始めます。
その弟を目の当たりにして、母親はいいました。
「あたしはきょう決心してきたんだけど、碧郎さんに信仰を勧めようと思って、信者にして天国へやりたいと思って、でもあの子はいい子になってて、お祈りもいらなくなっている、わたしよりイエス様のほうがさきにあの子を救ってくださって」。
神さまは限りない無償の愛を注いでくださる方であるということです。
この二つの出来事からわかることがあります。
神は弱さの中にあり救いを求める人間に対して無償の愛を注いでくださる方であるということ、同時に人間の思いあがりに対してはこれ以上ない厳しさを持ってさばかれる方であるということです。

 
わたしたちはその間を生きているということです。
わたしたちは神の徹底的なやさしさとこれ以上ない厳しい裁きの間を生きている存在なのだということです。
もっと厳密に言えば、神の愛と裁きの間を生かされているのです。
神の計らいがあるからこそ、今こうしてこの場にいるのです。
自分の力で生きているのではなく、神の力に生かされている、そのことにしっかり気づくところに、わたしたちの本当の人生があるということです。
敬和学園での学校生活も、それをしっかり意識することから喜びが生まれ充実していきます。
生かされている今、この一週間も神の存在を意識しながら共に歩んでいきましょう。